おはなしをつくる、基本のようなこと。
今回、大人にありがちなことを、
子供におけることで、置き換えて表現する、
という30分の話を書いている。
元々描きたいことは、
大人の病のような考え方、「アンドゥ症候群」とも呼べるものだった。
社会人生活で経験する、大人たちの考え方。
なんでもやり直せるという安易な考え。
最初にイメージすることをせず、
いきあたりばったりで始めて、いきあたりばったりですぐアンドゥして、
スケジュールはガタガタ、全く進まない仕事、
決定が下せない優柔不断みたいなことを批判したかった。
そのまま上手くドラマタイズすれば、
生々しい話になったかも知れない。
が、ディテールをうまく詰められなかったので、
子供の話に置き換えることにした。
子供がアンドゥという概念を知ってから、
何一つ進められなくなってしまう話。
将棋は待ったをかけ、書道は最後まで書けず、
ついには学校への道を、どうやって行くのがよいか分からなくなる。
別れ道でアンドゥしては戻り、結局家まで戻ってしまい、
一歩も家から出られなくなる、という話を創作してみた。
人生の最善手は、一手もささないことだ、と彼は悟ってしまう。
飼っていた犬の死を通して、命はアンドゥ出来ない体験をし、
家から出てくる、という話だ。
アンドゥという安易な発想で、ものごとが進まなくなること、
人生を進めるには、アンドゥしない覚悟を決めてやるしかないこと、
などを、大人の社会で描くことも出来たが、
子供の話にすることで、
より問題が分かりやすく抽出されている。
具体的な仕事や指示の話でなく、
将棋や登校の道の話に、「置き換えられている」のである。
これが、おはなしをつくる、ということのひとつだ。
現実にある複雑なことを、
お話の中に整理して戯画化するのである。
このように整理されたお話の中の世界は、
現実より問題が分かりやすく、より頭の中で操作しやすい。
作り話にはリアリティーがない、
そんなに現実がうまくいくわけがない、
というドキュメント信者は、
作り話は、現実そのままではなく、
現実の何かを描くために、
その性質を抽出して、他のものに置き換えられてつくられている、
というこの作り方を、恐らく知らない。
登校の道で、交差点のたびにアンドゥする小学生は、
リアルにはいない。(その気持ちは、わかる)
しかしこれが、人生や仕事の暗喩であることが分かるからこそ、
この話は意味がある。
これは不登校の子供の話ではなく、アンドゥという病にとりつかれた人間の話なのだ。
この置き換えの優秀なところは、「人生はアンドゥ出来ない」という結論を出すのに、
飼い犬の死、という感情的に大きく振れるクライマックスを用意出来ることだ。
子供にとってのこの重く深く刺さることを、
大人にとっての何かのイベントで表現することは不可能だろう。
(取り返しのつかないことを、仕事世界で表現しても、
飼い犬の死ほどにインバクトがありキャラの立った事件としては描けない)
つまり、大人で描くより、もっと深く刺さるような事が、
子供世界で描けているのだ。
大人の問題を、このように子供の世界に置き換えて表現するのは、
比較的ポピュラーな方法だと思う。
大人の世界だとこういうことだが、子供の世界だとこういうことだ、
という戯画化がやりやすい。
何かを何かに置き換えて表現するのは、
単なる比喩表現や部分的なことではなく、
このように構造ごとやることも可能だ。
(これって文学における○○法みたいな名前ついてたっけ。)
全然違うことでそれを表現する、
のはたとえ話などでも可能だ。
「それ」を「そのまま」表現するのは、野暮だ。
我々は、置き換えることで、野暮を創作にするのである。
2014年01月11日
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