2014年01月18日

楽譜と即興

僕はアドリブ否定派だが、
一字一句守れ派でもない。

現場に即興の神が降りるときもある。
撮影現場というなまものには、そんなこともある。
しかし、大抵計画のほうが強いぐらいまで、
練ることを勧める。



ジャズをはじめとする音楽、
現代舞踏、舞台の芝居、お笑いでは、
しばしばアドリブの神が降りるときがある。

ジャズにおいては、完全即興と即興は違うらしく、
即興とはいえ、コード進行などに一定のルールがあるらしい。
芝居やお笑いにおいては、
受けているのならそれを予定より長く続け、
また元の台本に戻るのが予定調和的な即興のあり方だ。
(間違いを、アドリブで乗り切るという裏の使い方もあるが)
完全即興とは、その場の思いつきで、
(ある程度準備していることも含め)
作曲したり、笑える話を思いつくことだ。

僕は何度か講演したことがあるが、
あれも即興といえば即興である。
原稿を読んでいるわけではなく、
大体の話を考えているだけで、
話しながら次のことを考えているのである。

即興において重要なのは、
生の観客の存在だ。
今そこにいる人たちだけに、この場だけのために、
その場の温度を見ながら、調子や方向性を変えていく。
重要なのは今と次であり、過去や先程ではない。
だから、点なのだ。

一方、即興の反対とは、完璧な計画と実行である。
それは綿密な線として、幾重にも計算されている。
脚本で言えば、
あることを他に使ったり(伏線)、
最初の問題に帰ってきたときがテーマのとき(ブックエンドテクニック)で、
サブのラインが絶妙に絡み(サブプロット)、
首尾一貫しており、
どんでん返しであっと言わせるようにしている(ミスリード)。
これらは計画をしない限り実行不可能で、
決して点の即興からは生まれない。

あなたの書いた脚本でアドリブが多かったら、
あなたの計画が面白くないことの証拠だ。
点による即興、すなわち瞬間的な沸点で、
持たせるしかなかったのだ。


そして最も重要なことは、
脚本の第一稿とは、全てが即興で書かれたということだ。
書くという行為は、即興なのだ。
第n稿は、n度目かの即興のテイクなのである。
即興を煮詰めて煮詰めて、完璧な計画にしてゆくのである。
即興には、神が降りることもあるし、失敗することもある。
生の観客の前ならば、次に成功すれば失敗は取り戻せる。
しかし映画は生の観客を前にするわけではない。
そのために、即興テイクを重ねるのだ。
自分が演奏者となり、観客になりながら、
失敗を取り除き、成功だけにする。
その成功の流れという計画が、出来上がった脚本なのだ。

楽譜と即興の関係は、そのようなものだ。
即興に負ける程度の計画なら、その楽譜に至る即興はレベルが低かった。
その計画以上の即興が生まれたとき、
脚本のバージョンがひとつ上がるのである。

即興に強くなろう。
即興に強ければ強いほど、テイクを重ねることが出来、
脚本の練りが上手くなる。
そして、安易な即興を否定出来るだけの根拠になる。
そこは中国拳法が、二千年前に通過したッッ!と。(烈海王)

楽譜とは、即興の深い重ね合わせなのである。
そして即興は、楽譜の最新更新である限りは正しい。
posted by おおおかとしひこ at 02:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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