僕はアドリブ否定派だが、
一字一句守れ派でもない。
現場に即興の神が降りるときもある。
撮影現場というなまものには、そんなこともある。
しかし、大抵計画のほうが強いぐらいまで、
練ることを勧める。
ジャズをはじめとする音楽、
現代舞踏、舞台の芝居、お笑いでは、
しばしばアドリブの神が降りるときがある。
ジャズにおいては、完全即興と即興は違うらしく、
即興とはいえ、コード進行などに一定のルールがあるらしい。
芝居やお笑いにおいては、
受けているのならそれを予定より長く続け、
また元の台本に戻るのが予定調和的な即興のあり方だ。
(間違いを、アドリブで乗り切るという裏の使い方もあるが)
完全即興とは、その場の思いつきで、
(ある程度準備していることも含め)
作曲したり、笑える話を思いつくことだ。
僕は何度か講演したことがあるが、
あれも即興といえば即興である。
原稿を読んでいるわけではなく、
大体の話を考えているだけで、
話しながら次のことを考えているのである。
即興において重要なのは、
生の観客の存在だ。
今そこにいる人たちだけに、この場だけのために、
その場の温度を見ながら、調子や方向性を変えていく。
重要なのは今と次であり、過去や先程ではない。
だから、点なのだ。
一方、即興の反対とは、完璧な計画と実行である。
それは綿密な線として、幾重にも計算されている。
脚本で言えば、
あることを他に使ったり(伏線)、
最初の問題に帰ってきたときがテーマのとき(ブックエンドテクニック)で、
サブのラインが絶妙に絡み(サブプロット)、
首尾一貫しており、
どんでん返しであっと言わせるようにしている(ミスリード)。
これらは計画をしない限り実行不可能で、
決して点の即興からは生まれない。
あなたの書いた脚本でアドリブが多かったら、
あなたの計画が面白くないことの証拠だ。
点による即興、すなわち瞬間的な沸点で、
持たせるしかなかったのだ。
そして最も重要なことは、
脚本の第一稿とは、全てが即興で書かれたということだ。
書くという行為は、即興なのだ。
第n稿は、n度目かの即興のテイクなのである。
即興を煮詰めて煮詰めて、完璧な計画にしてゆくのである。
即興には、神が降りることもあるし、失敗することもある。
生の観客の前ならば、次に成功すれば失敗は取り戻せる。
しかし映画は生の観客を前にするわけではない。
そのために、即興テイクを重ねるのだ。
自分が演奏者となり、観客になりながら、
失敗を取り除き、成功だけにする。
その成功の流れという計画が、出来上がった脚本なのだ。
楽譜と即興の関係は、そのようなものだ。
即興に負ける程度の計画なら、その楽譜に至る即興はレベルが低かった。
その計画以上の即興が生まれたとき、
脚本のバージョンがひとつ上がるのである。
即興に強くなろう。
即興に強ければ強いほど、テイクを重ねることが出来、
脚本の練りが上手くなる。
そして、安易な即興を否定出来るだけの根拠になる。
そこは中国拳法が、二千年前に通過したッッ!と。(烈海王)
楽譜とは、即興の深い重ね合わせなのである。
そして即興は、楽譜の最新更新である限りは正しい。
2014年01月18日
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