僕が脚本論ばかり書いて、
演出論をあまり書かないのには理由がある。
演出とは、脚本を読むことに他ならないからである。
脚本がよく出来ているとき、
実は演出の正解は、おおきくはひとつしかない。
多少の揺れはあるにせよ、
脚本の流れやニュアンスがしっかりしていればいるほど、
演出の必要はない。
料理にたとえるなら刺身だ。
精々角が立つように鋭角に切り、
食べやすい大きさにし、いい醤油とワサビをちょっと効かせればいい。
刺身の素材がそもそももつ、しっかりとしたものを、
ただ伝えることに専念すればよいからだ。
だから、その中身、脚本の中の中、奥の奥まで読解しているかどうか、
ということが一番大事なこととなる。
あとは、それに従って自然にすればよい。
問題は、脚本の出来が悪いときだ。
素材の悪いものの料理の仕方は、
素材の臭みを消すまでスパイスをぶっこみ、
全部の味を渾然一体とさせて煮込み倒し、
原型がなくなるまでグズグズに煮込むことである。
灰汁をとりまくり、最後に薬味を散らして強い香りをつける。
演出のすることが増えてくる。
独自の味つけで知られる個性的な監督は、
大抵その味に煮込むことが期待されている。
極端な例だと、井口昇がそうだ。
井口の物語は、もはや脚本だけだと体をなしていない。
井口味をぶちこむために、最初から隙間のある脚本を用意している。
僕は、脚本の出来が悪いときは、
脚本を書き直して、まずいい脚本にするところから始める。
(そして、大体の優秀な監督はそうする)
それが、最も大事な調理法である。
「風魔の小次郎」の脚本、1、2、13話を風魔の小次郎カテゴリに公開した。
読めば分かるが、脚本の時点ですでに面白い。
あとは、この面白さを失わないようにつくればよいだけ、
と勝手に皆が動いてくれる。
いい仕事は、そのように全体が機能する。
演出は、手書きの文字に似ている。
字の形、書き方、文字の意味は、一意に決まっている。
手書きの揺れが、それにニュアンスを与える。
しかし、前者の方が大事で、後者はあくまで第一印象のようなものだ。
わざと個性的に尖らせたり、丸めたりした字を書く人もいる。
レイアウトに工夫した字で目立とうとする人もいる。
僕は、素直に暖かい読みやすい字であればよいと、最近は思っている。
バズ・ラーマンの「ロミオとジュリエット」は、
古典的脚本を、物凄いCM的な異常ビジュアルでやる、
演出を突出させた古典脚本、という一種の一発企画であった。
当時はすげえと思ったが、
ごはんと味噌汁は、チーズやトマトをかけたり、冷やしで食ったり、
オーブンにぶっこんで違う味にするよりも、
いい米といい味噌といい野菜でちゃんとつくったほうが旨いと思うようになった。
この字をこういう変わった書き方をした、
この字を隷書で書いた、と目立つことよりも、
そもそも内容が何と書いていて、それが我々になんの意味があるのか、
の方が重要だと思うようになった。
内容の為に、文字は見やすいのがいい。
見づらい文字は、内容に自信がない裏返しである。
理想の編集は、カットが変わったことに気づかれないことだ。
理想の演出は、演出の手が入っていないように見せること、かも知れない。
2014年01月17日
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