2014年01月18日

人は何故物語を書くのか

書かないと気が狂うから。

それぐらいの切実性がないのなら、
あなたは物書きに向いていない。

面白いことを思いついたら、口に出すのが芸人だ。
言わないと死んでしまう。言い続けないと死んでしまう。
外に出し続ける生き方というものは、生まれ続けることだ。
頭の中に溜め込むことは出来ない。
すぐ外に出すというループを続けるのだ。
外に出すから、思いつくための空白が生まれる。

面白い物語を思いついたら、勝手に妄想が広がり、
それを頭の外に出さないと死んでしまうのが、
物書きだ。
何かに似ているとか、よくある話だとか、
妄想の最中は思わない。
それは冷静さというプロ根性で判断する。
途中で判断できたら、自分のハードルを高くする。
それ以上に面白いものが思いつくまで、
外には出さないと。
が、いずれアイデアを思いついてしまう。
プロットは発展し、話は展開し、落ちまで出来てしまう。
登場人物は形を持ち、生命をもち、勝手に喋り出す。
そいつのように喋りはじめるようになる。

このまま放置していては、脳が焼ききれる。
だから物書きは、それを外に出す。
このまま妄想が、脳の中より広くなってしまうから。


あなたが何も思いつかず、外にも出そうと思わないなら、
物書きは目指さないほうがよい。
書きたいから書くのでは、憧れに過ぎない。
それは一方的なものいいの、単なる主張論文になるだけだ。
話を書くという行為は、憑依である。
取りつかれるのである。
ある日芽が生えたら、そこに憑依した物語が受肉するのである。
話を書くという行為は、その憑き物を原稿用紙に落とすことだ。
憑き物を落とさないと、死んでしまうのである。


そこまで切実な物語だけが、
人の魂を変える物語になる資格がある。

テクニックはプロのテイストとして、絶対的に必要だ。
読み続けさせるテクニックや、うまく自分を書くモードにするテクニックは、
執筆そのものを助けるだろう。
しかしそれは所詮テクニックだ。
絶対的に必要なものは、
この話を死んでも書きたいという衝動だ。
この話と引き換えに、自分の命の評価をそれで終わらせてもよいという覚悟だ。
それは魂の白熱した燃焼だ。

エンタメ系という言葉は僕は嫌いだ。
それはヌルイことの言い訳に過ぎない。
テーマとか難しいことをやらなくて、
ちょっと面白ければそれでいいよね?という様子見だ。
そんな奴らは死ね。
本気で人を面白がらせようと思って苦労している人や、
本気で人生と引き換えにテーマを探している人に失礼だ。
それは文学にではなく、安易な金儲けという悪魔に魂を売った刻印である。
中身ではなく、ガワで人を騙して木戸銭を掠める詐欺師である。


あなたの白熱だけが、
他の人を白熱させることができる。
白熱していないものに、俺は熱狂などしない。
人類が生まれてから、白熱はリレーされてきた。
それが文化である。

僕らのジャンルでいえば、映画の歴史である。


あなたはあなたの命と引き換えに、何を書くのか。
書き終わったら、物書きは一度死ぬ。
たまたま生き残っていて、次の憑依が来たら、
次の命と引き換えにする。それが死ぬまで続く。

「風魔の小次郎」最終回の小次郎風に言う
(これは僕が書いたから、僕の台詞だ)ならば、
俺の命を使ってもいいと思うこと。
物書きにとっての作品とは、そのようなものなのだ。


人は何故物語を書くのか。
死ぬからである。
posted by おおおかとしひこ at 01:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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