書かないと気が狂うから。
それぐらいの切実性がないのなら、
あなたは物書きに向いていない。
面白いことを思いついたら、口に出すのが芸人だ。
言わないと死んでしまう。言い続けないと死んでしまう。
外に出し続ける生き方というものは、生まれ続けることだ。
頭の中に溜め込むことは出来ない。
すぐ外に出すというループを続けるのだ。
外に出すから、思いつくための空白が生まれる。
面白い物語を思いついたら、勝手に妄想が広がり、
それを頭の外に出さないと死んでしまうのが、
物書きだ。
何かに似ているとか、よくある話だとか、
妄想の最中は思わない。
それは冷静さというプロ根性で判断する。
途中で判断できたら、自分のハードルを高くする。
それ以上に面白いものが思いつくまで、
外には出さないと。
が、いずれアイデアを思いついてしまう。
プロットは発展し、話は展開し、落ちまで出来てしまう。
登場人物は形を持ち、生命をもち、勝手に喋り出す。
そいつのように喋りはじめるようになる。
このまま放置していては、脳が焼ききれる。
だから物書きは、それを外に出す。
このまま妄想が、脳の中より広くなってしまうから。
あなたが何も思いつかず、外にも出そうと思わないなら、
物書きは目指さないほうがよい。
書きたいから書くのでは、憧れに過ぎない。
それは一方的なものいいの、単なる主張論文になるだけだ。
話を書くという行為は、憑依である。
取りつかれるのである。
ある日芽が生えたら、そこに憑依した物語が受肉するのである。
話を書くという行為は、その憑き物を原稿用紙に落とすことだ。
憑き物を落とさないと、死んでしまうのである。
そこまで切実な物語だけが、
人の魂を変える物語になる資格がある。
テクニックはプロのテイストとして、絶対的に必要だ。
読み続けさせるテクニックや、うまく自分を書くモードにするテクニックは、
執筆そのものを助けるだろう。
しかしそれは所詮テクニックだ。
絶対的に必要なものは、
この話を死んでも書きたいという衝動だ。
この話と引き換えに、自分の命の評価をそれで終わらせてもよいという覚悟だ。
それは魂の白熱した燃焼だ。
エンタメ系という言葉は僕は嫌いだ。
それはヌルイことの言い訳に過ぎない。
テーマとか難しいことをやらなくて、
ちょっと面白ければそれでいいよね?という様子見だ。
そんな奴らは死ね。
本気で人を面白がらせようと思って苦労している人や、
本気で人生と引き換えにテーマを探している人に失礼だ。
それは文学にではなく、安易な金儲けという悪魔に魂を売った刻印である。
中身ではなく、ガワで人を騙して木戸銭を掠める詐欺師である。
あなたの白熱だけが、
他の人を白熱させることができる。
白熱していないものに、俺は熱狂などしない。
人類が生まれてから、白熱はリレーされてきた。
それが文化である。
僕らのジャンルでいえば、映画の歴史である。
あなたはあなたの命と引き換えに、何を書くのか。
書き終わったら、物書きは一度死ぬ。
たまたま生き残っていて、次の憑依が来たら、
次の命と引き換えにする。それが死ぬまで続く。
「風魔の小次郎」最終回の小次郎風に言う
(これは僕が書いたから、僕の台詞だ)ならば、
俺の命を使ってもいいと思うこと。
物書きにとっての作品とは、そのようなものなのだ。
人は何故物語を書くのか。
死ぬからである。
2014年01月18日
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