2014年01月20日

主人公は何人いるか

一人が原則である。

映画は主人公の物語であり、
他の人物は主人公にならない。
他を主人公レベルに深く描くと、どちらが主人公か分からなくなる。
これを、「食われた」という。

「スターウォーズ」はルークの物語であるが、
ダースベイダーやヨーダの方がキャラが立っている。
1(エピソード4、以下公開時のナンバリング)は
ルークが主人公だが、
2はハンソロに食われ、3はダースベイダーに食われている。

「ブレードランナー」では、主人公デッカードが、
ラストの名シーンでロイに食われている。

「サンセット大通り」では主人公の脚本家が、
大女優に食われている。

「落下する夕方」では、主人公原田知世が菅野美穂に食われている。

「はじめの一歩」では主人公一歩より、鷹村の方がキャラが立っている。
「幽遊白書」では、主人公幽助より、飛影や蔵馬の方が
キャラが立っていて人気だった。
原作版「風魔の小次郎」では、小次郎より、竜魔や武蔵、項羽の方が
キャラが立っている。(この問題に関しては監督メモで議論した)

主人公が食われるのは、大抵、そのキャラが主人公より立っているときだ。


キャラが立っている、とはどういうことか。
他より目立つオリジナリティーを持っている、ということだ。

主人公と同等に描くと、キャラの立っている方に関心が傾くのだ。
書き手も、観客も。
それは、思い入れに近い。
では主人公をその人物よりもキャラを立たせれば、
主人公は再び主役を取り戻せるか。
大抵出来ない。

そこに、作者や観客の視点がどこにあるか、という問題がある。


我々観客も作者自身も、キャラの立った人間ではないから、
とある世界を覗き見る主人公を、
視点人物にしようとする。
視点人物とは、その人の目線から、世界を見ることだ。
名探偵ホームズは、ワトソン医師の目から見たホームズの記録である。
この古典が示すように、
キャラの立った人物を、フラットな視線から記録した、
という形式が、文学の基本型のひとつである。

ところが、これは記録文学ではあるが、
三人称文学ではない。

三人称文学とは、舞台のようなものだ。

出てくる人物は、全員他人であり、
誰か一人の中から世界を見ることは出来ない。
(例外的に、最初や途中で、観客に、
僕はこのとき実はこう思っていたんだ、と解説させる手法もある。
が、映画においてはこれはカメラ目線でしゃべるということだ。
カメラ目線は、映画では禁忌である。
「アニー・ホール」をはじめ、いくつかの実験的作品で
そのようなシーンを見ることが出来る。
結果だけ言うが、観客は最初は驚くが、結局しらける)
肉声と肉体言語だけが彼らの表現方法であり、
彼らの内面や視点は、見ることが出来ない。

三人称文学では、視点という記録者はない。
逆に、全員の視点でそれぞれの角度から事件を見る。
(極端な例は、「羅生門」のように証言がバラバラだ。
インタビューだけで構成した「理由」「ワンダフルライフ」や、
各々の立場から事件をドキュメントして全貌が見えない
「エレファント」もある)

つまり、三人称文学では、原則主人公などなくてもよい。

しかし、それでも代表的な何人かが必要だろう。
その最も大事なキーマンを、主人公と呼ぶに過ぎないだ。

事件、物語の鍵を握り、
事件の動きの中で最も臍になり、
事件に最も影響する人物が、主人公である。
つまり、誰が主人公かは、物語によるのである。

ただし。

誰かの視点に立っていないと、世界に入ることは難しい。
神の視点で全てを見渡す物語は、
想像したほどには面白くない。
箱庭でうごめく蟻を観察している気になり、
飽きてしまうのだ。
(「ドッグヴィル」などを見るとよい)

三人称文学では、キーマンが主人公だ。
しかも、誰かの視点に立ちたい。

つまり、映画や舞台や三人称文学では、
主人公の視点から世界を体験し、
なおかつ主人公が事件の最大のキーマンである必要がある。

どうやってか。感情移入によってである。


主人公の視点になるには、
主人公への感情移入が必要だ。
主人公とともにこの事件を体験し、
主人公の感情を共有しないと、ずっと神の視点でつまらない。
「感情移入とは何か」で議論したように、
主人公が平均的で平凡であろうが、才能を持つスペシャリストであろうが、
どちらにも感情移入させることは可能だ。

俺は平凡で取り柄がないから、そんな主人公しか感情移入出来ない、訳ではない。
どんな人間であっても、「俺と同じだ」と思う所があれば、
人は感情移入することが出来る。
(人間的に未熟な人は、人生経験が乏しい為、
少しのことしか「自分と同じ」点を見つけることが出来ない)

平凡な主人公は、キャラが立たない。
だからキャラの立っている他の人物に食われる。
その時は、その主人公が、
最も深い問題を抱えていて、
最も問題解決にモチベーションがあり、
最も重大な決定的事項に関わるようにすればよい。
(駄目なシナリオでは、偶然そうなる。または、運命が決まっている、となる。
自分の意志で決断し、それに責任を取るという、行動こそが感情移入に直結する。
それは、人生の一回性と関係があると思う)

脚本では自分を書いてはいけない。
動かない主人公になりがちだ。


三人称文学的なキーマンを主人公にせよ。
殺人鬼でも悪者でもヘタレでもよい。勿論正義でも平凡でもよい。
事件に最も影響する人物を主人公にせよ。
事件の傍観者は背景であり、主人公ではない。

しかも、主人公を視点人物にせよ。
主人公の視点から物語を見るために、感情移入出来るエピソードを創作せよ。
第一に、陥ったシチュエーションの面白さであり、
第二に、俺と同じだと思わせる人間らしさであり、
第三に、自ら動いて責任を受け持つ(言い出しっぺになる)ことである。
そして第四に、最も深いモチベーションを持つことである。
そのモチベーションを示すエピソードを創作せよ。


これらが上手くいけば、
主人公は最もキャラが立ち、他のキャラの立っている人物に食われることはない。

大抵食われる原因は、
ACT 1が終わったら、次は展開すべきなのに、
また別の人物のACT 1をはじめてしまうことだ。
そっちの方が良くできていたら、そっちに感情移入してしまう。

自分の可能性に不安を持つ男より、
ダークサイドに身をやつし息子を誘う男の方が面白そうであり、
職務上レプリカントを追う男より、
命に限りがあるため、全てを見て脱走し、
残された命を自由に使いたい男の方が面白そうであり、
才能を示すチャンスを得たしがない脚本家より、
来ない本番を待ち続けて準備する老いた女優の方が面白そうであり、
何をしていいか分からない女より、
愛人から逃げてきて自殺する女の方が面白そうなのだ。

主人公の物語こそが、
最も面白いようになること。

分かっちゃいるけど、なかなか難しいことのひとつだ。
恐らく、ACT 2の難しさが原因である。
posted by おおおかとしひこ at 20:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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