2014年01月21日

台詞は嘘をつく2

「マッケンドリックが教える映画の本当の作り方」
(アレクサンダー・マッケンドリック、フィルムアート社)
から引用してみよう。
これは、役者が何をするのか、という議論で出された例だ。

声に出す台詞と出さない台詞がある、という文脈での例。
台詞が「いいえ、飲み物はいらないわ」という単純なものだとしても、
「声に出さない台詞」を追加することによって、
声に出す台詞のニュアンスを変えられる、という話。

例1
声に出さない台詞「ああ、最悪!」
声に出す台詞「いいえ、飲み物はいらないわ」
声に出さない台詞「こいつ、バカじゃないの?」

例2
声に出さない台詞「この人、なんてイケメンなの!」
声に出す台詞「いいえ、飲み物はいらないわ」
声に出さない台詞「しかも、この気づかい!」

例3
声に出さない台詞「次は、どう出るつもり?」
声に出す台詞「いいえ、飲み物はいらないわ」
声に出さない台詞「なるほど、私を酔わせようとしているのね」

(引用:P.183)
感度のよい役者は、このみっつを演じ分ける事が出来る。
役者ってすげえな、という話をここでしたい訳ではない。


脚本には、「声に出さない台詞」すら書かれている、という話をする。
それを、「文脈」というのだ。
コンテクスト、とわざわざ言う人もいる。
(撮影前に、コンテクストを与えます、といって
以前のシーンまでの文脈を説明する人もいる。
僕は台本読んでりゃ分かるだろ、という台本でしか仕事をしない派)

この女性が相手のことを、そもそもどう思っているのかは、
これがファーストシーンでない限り、
これまでの文脈で蓄積されている筈だ。
仮に初登場だとしても、
どう思っているか、その後の文脈で分かる筈だ。
それが分からないのだとしたら、
それは「書いていないことが書かれていない」脚本なのだ。


脚本には、文字面以上のことが書かれている。
すなわち声に出す台詞と、文脈である。

ぶっちゃけ、「女は男に興味がある」とト書きに書くことも出来る。
あるいは、「女は男に興味があるが、安い女だと思われたくなくて、
なるべく押さえた反応を決め込んでいる」とト書きに書くことも出来る。
だがそれは役者への指示に過ぎず、
観客は、台詞や芝居からその意図を読み取らなければならない。
「いいえ、飲み物はいらないわ(好意をばれないように冷静に)」
などのような書き方なら、台詞と文脈が逆であっても、
観客が読み取ることと同タイミングで脚本でも再現できる。
(カッコ内がなくても読み取れるのがエレガントな脚本だ)


勿論、現実に可能な範囲でしか、台詞と文脈のズレは起こすことが出来ない。
どのくらいまで可能かは、あなたの人生経験の範囲と、芝居の理解による。


「アニー・ホール」に極端な例がある。
哲学を語る男女の本音が字幕で出る、実験的場面だ。
とても難しい話を白熱しながら、
字幕は「セックスしたい」しか出ない。
これも、台詞と文脈のズレを戯画化した面白さである。

バカリズムの、僕の大好きなネタがあって、
「官能小説のエロ単語だけを全て野球用語に変えて読む」
というのがある。
「美智子の広島市民球場は、濡れそぼっていた」の辺りが特に好きだ。
これも、文字通りの台詞と、文脈(単なるセックス描写)の
ズレを楽しむ芸のひとつである。
これも逸話があって、なんと深夜ながらNHKでオンエアしたのだ。
「文字面上は野球の話しかしていない」ということで、
放送コードを切り抜けたことが伺える。
ここでも、台詞は嘘をついている。
台詞は野球だが、本心はエロだ。


どれも下ネタなのには、理由がある。
「人に知られたくないこと」は、嘘の原動力の、
もっとも強いモチベーションだからだ。
優れた脚本は、その動機までも言外の文脈から、
推し量ることが出来る(ありありと分かる)ように書かれている。


台詞のみが作る文脈と、
本心(文脈)の流れ、
脚本には、ふたつのレイヤーの流れがある。

本心の流れを変えようとして、
台詞で流れをつくろうとするのである。

人間というのは、そのような生き物だ。


枝野の原発事故での会見を思いだそう。
「ただちに影響はない」という台詞だったが、
彼の表情や間合いは、
「パニックを起こす訳にはいかないから、
この言葉を俺は言うしかない」という本心を示していた。
それを読み取れる人は読み取り、
パニックになりたくない馬鹿は、その言葉にすがった。

国語の客観テストを僕は否定する。
まるで客観的に書いてあることが文章の全てである錯覚を、
出来ない人に与えるからだ。

女の子を誘うときに、「ビール一杯飲んでいこう」と言うだろう?
それは、ビール一杯飲みたいことを言っているのではないだろう?
それは、台詞は台詞通りの意味ではないだろう?
その背後にある本心がドラマだろう?



台詞通りしか意味と文脈がない、
「ドラマ風」は、僕の軽蔑の対象である。
その台詞を書いた人は、バカリズムも「アニー・ホール」も見たことのない、
見たことがあってもその本質について考えていない、
好きな女の子を別の理由で誘い出したこともない、
薄っぺらい人間だ。
posted by おおおかとしひこ at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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