2014年01月23日

DQNネームの氾濫に見る、創作と客観性

客観性の話、続けます。

何故DQNネームが、これほどまでに氾濫するのかを考えよう。
創作における客観性が、普通の人にはない証拠だ、というのが結論だ。

名前をつける側から見てみる。

ありきたりの名前はつけたくない。
ザ日本人は、昭和臭くて嫌だ。
苗字はしょうがないから、せめて名前を自由にしたい。
もっと、洋風で、気のきいた、
出来れば外人にも好評で、
願いをこめた、ハイセンスなものがいい。
出来れば名付け親が褒められたい。

この思いは分かるし、抽象的には合っているのに、
何故その具体が、DQNなのか。
心愛と書いてココアだと?
それ人の名前?さん付けで呼びにくいわ。
とか思ってたら、こんなの可愛いうちだった。

可愛いから、という価値観、素敵、という価値観、
新しい名前を、と思う価値観、
どれも間違っていない。
しかしながら、アウトプットは、客観性を欠いている。

キラキラネーム、という二つ名が、この現象をうまく示している。
名付け親は、キラキラのつもりが、
客観的には、DQNなのである。


表現というものは、一部の人に与えられた特権である。
客観的に面白いことを出来る人以外は、
面白くないとして、淘汰されてしかるべきだ。

どんなに表現活動を本人がしたくても、
どんなに内なるマグマが湧いていても、
面白くなければ人は顧みない。
ストリートミュージシャンのように、
少し足を止めるけど、よくなければ人は去る。
夢破れたストリートミュージシャンは田舎へ帰る。

その淘汰作用が、命名の場合行われない。


表現に関する素人が、表現に手を出して、
淘汰されないもの。
それがDQNネームである。


DQNネームは、他にもある。
建物の名前だ。
横浜アリーナとか好きだった。日産スタジアム?知るか。
渋谷公会堂も好きだった。CCレモンなんとかは、覚えられない。
劇場名もそうだ。
とくに地方公共事業でつくったものほど、センスがない。
これらは、決して淘汰されない。

僕の住む町の例を。
自由が丘の緑道に、ドコモショップがある。
出来たときはガラス張りと金属の、
流行りのモノクロームでスタイリッシュなデザインだった。
何も置かない空間がかっこよく、
デザイナーの意思を感じることが出来た。
ところが。
二週間も放っておくと、おばちゃん的な感覚で、
何もない空間が埋め尽くされて行く。
チラシをベタベタ張りつける。
キッズコーナーが出来て、ちゃちい色のマットや滑り台が、
スタイリッシュな空間の一角に出来る。
ドコモダケのぬいぐるみが散乱する。
白いソファのまわりには、
雑誌や新聞の棚が出来、飲み物の自販機が設置される。

カオスである。
スタイリッシュな秩序は、
俗というカオスに呑み込まれたのだ。
スタイリッシュなハコを、内装の俗が埋めたのだ。
デザイナーが見たら、卒倒するに違いない。
俺は、こんな俗に巻き込まれたのかと。
(お近くの方は、自由が丘で降りてトレインチという商業施設へ向かい、
奥のブロックの手前で桜並木の続く緑道が左に見えたら左へ。
東急のガードレールをくぐる前に、左に見える筈だ。
中に置いてあるものを、頭のなかで一端取っ払って、
出来たばかりのスタイリッシュ空間を想像して、
目の前のカオスと比較してみよう)


あなたの意思が、客観的にいいとは限らない。
あなたの丸裸を、醜い裸と淘汰される環境があれば、
醜い裸は淘汰される。

本来、素人の表現は、ダサくて、カオスで、詰まらないのである。
淘汰、洗練が起こるのは、継続的競争のお陰だ。
詩人、小説家、作詞家、脚本家の文章(と内容)は、
その素人の表現を、凌駕しないと淘汰される。
「客観的に」、面白いから、淘汰されないのだ。


最近のCMは詰まらねえな、淘汰されねえかな、
とずっと思っていたが、テレビごと淘汰されかかっているようである。
posted by おおおかとしひこ at 08:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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