2014年01月23日

個人的、妥当、突破

内容と客観性の話、続けます。

レベルをみっつに分けられるかなと。

「個人的」の範囲は、その人個人や、その人を知る人のレベルで、
面白いこと。
前項では、DQNネーム、建物の名前の例をあげた。
ファン向けの芸能人のサービス、もそのひとつだ。
実際、ジャニーズのグッズの売り上げは物凄い額だし、
芸能人のステマで額が動くが、
それは個人的の範囲でしかない。
その個人が好きなこと、その個人を好きな人、の範囲の、
クローズドな範囲での出来事でしかない。
ここでは通用しても、あちらでは通用しない。
ローカルといってよい。

「妥当」のレベルは、
人前に出すなら最低限この程度の良さがなければならない、
の範囲だ。
妥当な面白さ、妥当な良さ、妥当なストーリーなどだ。
大道芸人は、この範囲より下だと淘汰されるだろう。
ローカルは、これに比べれば、ローカル性に甘えていると言える。
個人を知らない人でも、面白いレベルに達したものがここに来れる。
CMだと、ノンタレ(タレント出演させずに、面白いものをつくること。
役者やモデルを使い、有名人の力を借りずに面白い話をつくる。
今のドラマは有名人ありきでつくるが、昔のテレビドラマは、
実力キャストの中に有名人が混じる程度だった。
その作り方の差が、内容にも影響しているのは論を待たない)
のジャンルである。
そこには客観性がある。
客観的な面白さとは、どういうことかが自覚出来ていないと、
無名の人が出ているものを面白く出来ない。
(有名人のしがらみがないぶん、純粋に面白さを追求できる)

ホテルマンのサービスが妥当かどうか、僕はいつも分からない。
西洋の習慣だからかも知れない。
旅館の女将のサービスが妥当かは、わかるけど。


「突破」のレベルは、その上だ。
面白すぎて、知らない人も巻き込んで、渦を形成するものだ。
多少断っても、面白いから見せてくれ、と要求されるレベルだ。
客観的面白さを極めると、
個人に戻ってくる。
本当に深いところに響くのは、個人が大事に大事にしているところだ。
その部分こそが、みんなが見たいところなのだ。

オナニーだ、と駄目な作品を言うときに皆は言う。
しかし最高のものは、そのオナニーが皆が見に来るショウになることだ。
クローズドでない、オープンな空間でだ。
そしてそれで皆が(心のなかで)オナニーするのである。
その時、我々は心の奥底で繋がり、渦ができて行く。

集合的無意識とは、そのようなものだ。
妥当レベルを最低限備えながら、個人個人の魂の奥底に届くものを、
世間を突破するレベル、といってよい。
posted by おおおかとしひこ at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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