2014年01月23日

3D映画では、ナメショットが成立しない

3D映画を語ることは、2D映画(何も冠詞をつけず、ただ映画と呼ぶべきだが、
混同を避けるため2Dとつけるのは勘弁して頂きたい)とは
何かを考えることだ。

今回は、ナメショットの話。

ナメショットとは、何かをナメて撮るカットのことだ。
肩ナメがポピュラーだ。
被写体を奥に配置してフォーカスを合わせ、
その手前、大抵は上手(かみて)か下手(下手)に、
その被写体が相手しているもの(肩ナメなら、会話の相手の肩や後頭部)
を、ボケて写しこむことだ。

肩ナメは、映画における最もポピュラーな、
会話シーンでの定番である。
男女の会話だとして、
女が喋るときは、男の肩ナメで女を撮る。
男が喋るときは、女の肩ナメで男を撮る。
これらを台詞に応じて繋ぎ合わせると、二人が会話しているように「見える」。
(モンタージュ。編集の第一。理論的には、二人が現場にいなくても、
つまり別撮りをしていても、編集であたかも会話しているように見せることができる。
実際には、ほんのちょっとした目線や間やテンションの差で、ばれる。
ごく短い会話ならばれにくいため、CMなどではタレントの都合で、
別撮りしてモンタージュすることもある。
昔先輩の有澤監督が、ダースベイダーと椿三十郎を切り返して繋ぎ、
まるで二人が会話しているかのように繋いだことがある。
話は決裂し、椿三十郎が切りつけ、ダースベイダーが受け止め、
もう一回椿三十郎が切り、ダースベイダーがうおおとやられる。
モノクロの椿三十郎と、カラーのダースベイダーなのに、
話は切り返しだけで繋がるのだ。これがモンタージュによるマジックである)

ナメた肩は、ボケを使う。前ボケ(被写体より前にボケがあること)だ。
単純に美しい写真であること、意識下に相手を暗示すること、
あと編集で間を変えたり出来るように、
相手の動きが厳密に見えているのを避けるためだ。

肩ナメの会話(ワンセットで切り返しと普通言う)は、
映画編集の基礎である。今ではごく当たり前のことだが、
映画は、エイゼンシュテインがモンタージュという「カットを割る」ことを発見してから、
原則このことをベースに発展した。


肩ナメ(ハリウッドでは、オーバーザショルダー、OTSが一般的。
日本では、ナメ以外にも、かじるとか、越しとか、入れ込みなどと言う)
以外にも、ナメは沢山ある。

ミドルサイズでは、腰ナメが定番だ。
腰あたりだけをナメたり、腰から上半身ぜんぶをナメたりする。
ミニスカートの腰ナメは、男子の妄想をかきたてる。

ローアングルの足(靴)ナメも定番だ。
対決のフレームインによく使われる。
(その文法を使いながら靴のCMにもよく使われる)
西部劇では、あの歯車のついたブーツナメが多用された。

花ナメとか、家具ナメとか、頭ナメ(ハゲナメと茶化したら、
ハゲをナメるのは嫌だとカメラマンは言った)とか、
ナメものは色々ある。
目的は、ボケ(にじみ)を使って絵を美しくすることと、
無意識下に被写体の周囲を表現するため(空間のマッチング、
と理論書ではよく言われる)である。


さて、このナメが、3Dでは気持ち悪いのである。

ボケた立体が、例えば右の視界の端に見えるのだ。
手前なので、余計ちらちらと気になる。
どんなに目をこらしても、ボケているのでフォーカスが合うことはない。
更に切り返すと、今度は左側の手前に、また邪魔なちらちらが現れる。
次の台詞は右の手前にちらちらだ。
つまり、ナメショットだと、被写体と手前の、
二ヶ所にフォーカスポイント(見るべき場所)がある。
それを切り返すと、4つのフォーカスポイントになる。
切り返しで、被写体とレンズの距離が違うなら、
我々は4つの距離にいるものに距離を合わせなければならない。

会話は二者で行われる。
にも関わらず、カットが変わるたびに、
我々は4つのフォーカスポイントを行き来する。
ちっとも会話が頭に入ってこないのはこのためだ。

2Dの会話の切り返しには、様々な伝統がある。
ひとつには正面性だ。こちらを向いているものの言うことが表現だと思う。
客に尻を向けて台詞を言う役者がいないのはこのためだ。
自然な会話を撮るとき、二人の顔を同時に見ることは出来ない。
(ワンショットで二人の顔を正面でおさめるには、
二人の位置関係を工夫する必要がある。
歩きながらの会話、釣りをしながらの会話、電車のつり革につかまりながら、
タクシーの後部座席、手元で作業している人に背後から話しかけるなど、
二人の体が同じ方向を見ている自然なシチュエーションを用意し、
二人の体のむきを同方向にする必要がある。
優れた監督は、切り返しが撮れない状況のとき、
二人が並ぶような立ち位置に、自然に入るように芝居をつける)
そして、上手と下手の原理を使い、
視線がテニスの試合のように、左右に移動するようにする。
つまり、会話は左右という二項対立となる。

ところが、3Dで切り返すと、
二項対立が、4つのフォーカスポイントになってしまう。
つまり、3Dの会話シーンは、新たな文法を生まない限り、変だ。
参考になるのは、リアル3Dの舞台劇や漫才である。
観客に尻を向けて喋る役者はいない。
しかし、演劇には第四の壁がある。
(観客とステージの間に透明な壁があって、
ステージからは観客は見えていない、という約束で演劇は進む。
役者があれは何だ!と観客席を指差しても、観客席を示したわけではない)
第四の壁に向かって言う台詞は、誰かに向けた台詞であって、
観客に話しかけているわけではない。
3Dの二人が、体を正面気味に向けて、カメラ目線でなく会話すれば、
一応のルールを満たしたことになる。
フォーカスポイントも二つであり、二項対立だ。
しかし、会話の度に、相手の顔も見ず毎回この体制をつくるのは不自然だ。

映画で最も多いのは、会話(対話)なのだから。


こんな簡単なことすら、
3Dでは文法がない。
僕は、3Dが最も生きるのは、ワンカットでカメラも動きながら芝居をつくること、
だと予言した。
恐らくその中で、正面性を保つように会話がなされるべきだ。

そんな凝った会話の振り付けを毎回上手く出来る訳がない。

映画の物語内の二項対立は、
もっとシンプルなものである。

つまり、3D映画は、物語を語るに向かない方式なのだ。
一番単純な、二人の会話が不自然なのだから。
すなわち、3Dは衰退する。(みんなそう予感してるだろうが)


映画の文法とは、肩ナメの切り返しのことだ。
そして会話こそが脚本の常態である。
二人の会話という二項対立である。
(ときに三人以上の会話という複雑さ)
会話は、普通互いに向かい合って行う。(体の向きが同じなのは仲間の会話だ)
すなわち、コンフリクトである。
この対話に至るための動きが映画であり、
この対話のあと何が起こるかが映画であり、
その全体の動きが映画だ。
posted by おおおかとしひこ at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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