2014年01月25日

深い話はどうやって書くか

何故話には、浅いと深いがあるのだろうか。
何故殆どの話は安直で浅くなり、
一握りの話が、人生の深淵にたどり着くのだろうか。

そのまんま出すのか、
一端別のものに変換するのか、
という違いではないか、という仮説を出してみる。


まずそれ以前の話。
そもそも深いことを考えない限り、
深い話をつくることは出来ない。
出来上がったものが、薄っぺらい人生の様であるのは、
作者が深くないからだ。

ここで注意したいのは、作者が一人かどうかだ。
映画やドラマやCMでは、脚本や監督がきちんとした作者の場合と、
たとえそうクレジットされたとしても、他に作者がいる場合がある。

スポンサー(製作委員会)、芸能事務所、
(制作現場の制作プロデューサーではなく、
もう一段上にいる、現場に来ない)プロデューサーたちである。
彼らが「雇い主」(最近は芸能事務所が製作委員会に入る、
即ち資金を出すこともある。金のかかるCGを、CG会社を製作委員会に入れ、
製作費を押さえるかわりにヒットしたらバックする、という政治もある)
であることの強権を発動してきたら、
たいてい話が浅くなる。

浅い人間は、深さを理解出来ない。
「ハチワンダイバー」という将棋漫画に、
お前らは浅瀬でパチャパチャやってるだけだ、
と師匠が言う場面がある。
燕雀いずくんぞ鴻鵠の志をや知らんや、
という故事を知らない若い人もいるかも知れない。

日本人の議論は、全員の平均を取るように進むから、
浅い所が総意ポイントになりやすい。
深い話を「私はそうは思わない」と切り捨てる浅い人を、
僕は何人も見てきた。それに追従して票を入れる背広組も沢山見てきた。

監督や脚本家がいかに嫌がったとしても、
雇い主がそのようにせよ、と言ってきたら従わざるを得ない。
日本人は、途中で納得が行かないと降りる人を好まない。
一緒に頑張ってくれなかった人、のような感情論での烙印を押される。
(僕はどうにも納得できない理由でそれをやり、CMで3年は干された。
面倒な人、と腫れ物に触るようにしか人は接しなくなる。
途中で降りる迷惑をかける人、とトラブル物件扱いされるのだ。
最初から浅いと分かっていればそんな仕事は受けない。
揉め事は、編集というラスト付近に起こる。いくらでも直せるデジタルだからだ)


映画とは、人間とは何かを描く、文学のジャンルのひとつだが、
興行でもある。
浅い深いが興行と関係ないと思っている浅瀬の人間からは、
深い浅いは存在すらしない問題らしい。


作者が単独であれ、複数の総意であれ、
「作者」が浅いところにいれば、浅い話しかつくれない。

単独の例は、ゆでたまご氏(二人のコンビだが、シナリオは単独)である。
キン肉マンに深さを求める訳ではないので、それでよい。
むしろトンデモな浅さが魅力だ。


話がそれた。ここから本題。

さて、人生の深い経験や、深いものの見方があり、
それを文学にしたいとする。

それをそのまま描くのは、まだ浅い。


実話や本当のことをそのまま描くのは、
ルポやドキュメントや解説や論文のジャンルである。
何故なら、「本当のことを伝えることが主眼」だからだ。
これは、ある架空の物語を楽しむ映画的な体験とは異なる。

映画的体験とは、感情移入だ。

最初のシチュエーションに興味を持ち、
主人公の行動に面白味を感じ、
その跡を追いたくなり、
コンフリクトに打ち勝つ様や、
問題解決の動機や主人公独自のエピソードに心を震わせ、
サブプロットの副次的テーマでメインテーマを浮き彫りに逆照射し、
最後のクライマックスでハラハラし、
勝利にカタルシスを得て、
ラストシーンで主人公の人生に安堵し、
その意味を深く考えることだ。

ルポを伝えられ、そんな事実があったんだ、
と感心することとは違うのだ。
逆に、もし事実関係が感情移入の段取り通りになっていれば、
それは映画的な事実だ。

つまり、事実を元に、この形式に「変形」すればよいのである。
「事実を元にした」話や、小説に基づく話は、全てこの形に変形されている。
勿論、事実関係とは異なるから、それを理論的なことを知らない人のために、
「映画的表現にした」などと縮めて言うのである。


事実関係で、一部残るものもあるし、
全く変えなければならないものもあるだろう。
そのツギハギが、事実を知るものには違和感があるだろう。
改変された、という嫌な感覚が残るのだ。

これをまるで凌駕するためには、
全く別の世界で、その深いことを表現する、のが実は手っ取り早い。
世界のディテールを同じ世界にしないで、
全然違う世界にしてしまうのだ。

二本の映画の例で説明する。
「プリティウーマン」は、「マイフェアレディ」と
同じテーマの、別世界の話だ。
両者は、「下層階級の女を、上流階級の男が教育して
イイ女にしたてあげ、結局その女に惚れ込み、結婚する」
という男と女の深さで一致する。
前者は冷酷な会社の転売屋が、売春婦に道を尋ねて出会う。
後者は言語学者が、汚い下流言葉の花売りに出会う。
前者は会食の同伴者として彼女を教育し、
後者は下層の言葉を上流の言葉に教育する。

両者は動機は異なる。
前者は金で人を買う。(金で人を買えるかどうかが、焦点とテーマになる)
後者は、言葉を変えれば誰でも上流になれるかという問いだ。
(これはテーマとは直結しない。テーマと動機が直結している分、
プリティウーマンの脚本の方が完成度が高い)

どちらも同じなのは、
こちらのほうが上だという上流者意識が、
世界の真実を捉えている彼女に崩される、
という逆転の深さである。
人は立場ではない、魂なのだ、と上流である自分が分かっていないというテーマ性を、
狂おしい恋愛感情で知るのである。


世間的には、これらは別の物語と捉えられている。
表面に表れるビジュアルや世界設定が異なるからだ。
映画に詳しい人やプロットが分かる人には、
これらは似ている形式の物語であることは自明だ。

そして、深さにおいては、これらは同一の感情を表現している物語なのだ。


あなたの描こうとする深さは、
少なくともこの例のように、ふたつの全く違う世界に描くことが出来る。
あなたがプリティウーマンを書こうとしても、
マイフェアレディに書き直すことも出来るのだ。
その反対も可能なのだ。

そのまんま、何かを書こうと思うことは、
ルポの映画化の変換のように、
改変の痛みや違和感と闘わなくてはならない。
その痛みはあなた個人の痛みであり、
それを知らない人には関係のない話だ。
その痛みが、出来上がりの良さには全く寄与しない。
出来の良さに対して、事実関係との差異をチェックする、
これは後ろ向きの痛みだからだ。

あなたが最初マイフェアレディを書こうとしていたら、
プリティウーマンのように、全く別の世界で、
同じ深さの感情を書いてみることを検討してみてはどうか。

全く別の世界なら、いくらでも可塑的にものごとを設定出来る。
それは、最初の改変の窮屈さに比べ、
テーマに応じた世界の構造を可塑的に作りやすいだろう。

言語学者と花売りの話が、ビジネスマンと売春婦の話になるとすれば、
ビジネスマンの仕事周りで大事な取り引きがあり、
ビジネスマンが金で人を買うことを常識としており、
彼女を金で囲おうとして切れられる、などのストーリーラインは、
言語学者と花売りの話では出来なかったプロットだ。
このように物語がその世界で膨らみつつ、
当初の男の感情の深さは、描けるのである。


以前の記事で、大人のアンドゥ症候群を、
子供の世界で描く例をあげた。
このような、まるごとの変換が、
作劇という行為には可能である。


頭を、そこまで柔軟に保ってほしいものである。
全然別の世界で描いてみようか、という発想は、
全然別の世界でも描ける、という実力の自信がないと無理だ。
それは、場数を踏んでいないと無理だろう。
僕が作劇の場数を踏め、一本二本書いて脚本家とか言うな、
というのは、そのことでもある。
(CMのストーリーものなら、段ボール何箱ぶんも、企画を書いた。
昔から、脚本家は原稿用紙を重ねて身長を越えるぐらい書かないと、
デビュー出来ないと言われる。それは、作劇の経験だ)
作劇の場数を踏むことで、
プロットと、テーマと、深い感情を、
それぞれ分離出来るようになる。

プロットと深さが分離出来ないのは、
まだ作劇として不十分だ。
深さを純粋に取りだし、
別のプロット世界へ受肉させてみよう。
そのとき、深さの魂は、もとの世界よりも、
映画物語的な翼を大きく広げられる筈だ。
posted by おおおかとしひこ at 11:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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