2014年01月25日

映画形式の物語は、狭い

前項の議論の続き。
映画形式の物語は、小説やルポに比べ、
表現できる物語の種類が狭いのではないか、という話。

前項での感情移入の段取りが真実であり、
それ以外の形式を許容しないのだとする、
つまりあれこそが映画の黄金形式で、
それ以外は映画形式でない物語だとする。

とすると、それからこぼれる物語は沢山ある。
小説やルポには、それ以上のパターンや形式があるだろう。

逆の話をする。
先日、SF小説の傑作「夏への扉」を読了した。
(正月から続く、まだ読んでいないSF小説を読む個人的ブーム)
そのプロットが、あまりにもハリウッド映画の形式と一致していて、
物凄くびっくりした。
何故誰もあれを映画化しないのか、意味が分からないぐらいだ。
誰もやらないなら、日本を舞台に翻案して映画化してもいいぐらいだ。
この小説は、「それ以外」の物語形式ではなく、
映画形式の構造を持つ物語だった。
つまり、映画形式でも、小説を書くことが出来る。


小説やルポには詳しくないので断言出来ないが、
映画に関しては、ぼくの抽出した感情移入形式以外のもので、
面白かったものはない。(ビターエンドに例外あり)
つまり、映画に出来る物語は、世界にあるありとあらゆる面白い物語の、
部分集合でしかない。

尺の問題もある。
短い物語を長くすれば冗長だし、
長い物語をカットすれば物足りない。
「100万回生きた猫」はあの長さがベストだと思う。
「いけちゃんとぼく」はあれがベストではないといまだに思う。
(そもそも映画形式の物語に変換出来るのかどうかの確信もない)


映画は、世の中の全てではない。
そう思えば、力みも取れるものだ。
映画形式の、ただ面白い物語を量産すればよいのだ。
10億とか生活で見ない金のことは、気にすることはない。

もし新たな映画に足る形式が発明出来れば、
あなたは映画物語の可能性を広げるかも知れない。
(デジタル化が、半ば強制的に映画物語を変質させつつある)

どちらにせよ、映画は、世の中の全ての物語形式の一部である。
狭い領域で、あなたは闘いをいどんでいることを自覚されたい。
(脚本家や監督が小説を書くのも、狭い領域以外に挑戦したかったのかも知れない)
posted by おおおかとしひこ at 14:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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