前項の議論の続き。
映画形式の物語は、小説やルポに比べ、
表現できる物語の種類が狭いのではないか、という話。
前項での感情移入の段取りが真実であり、
それ以外の形式を許容しないのだとする、
つまりあれこそが映画の黄金形式で、
それ以外は映画形式でない物語だとする。
とすると、それからこぼれる物語は沢山ある。
小説やルポには、それ以上のパターンや形式があるだろう。
逆の話をする。
先日、SF小説の傑作「夏への扉」を読了した。
(正月から続く、まだ読んでいないSF小説を読む個人的ブーム)
そのプロットが、あまりにもハリウッド映画の形式と一致していて、
物凄くびっくりした。
何故誰もあれを映画化しないのか、意味が分からないぐらいだ。
誰もやらないなら、日本を舞台に翻案して映画化してもいいぐらいだ。
この小説は、「それ以外」の物語形式ではなく、
映画形式の構造を持つ物語だった。
つまり、映画形式でも、小説を書くことが出来る。
小説やルポには詳しくないので断言出来ないが、
映画に関しては、ぼくの抽出した感情移入形式以外のもので、
面白かったものはない。(ビターエンドに例外あり)
つまり、映画に出来る物語は、世界にあるありとあらゆる面白い物語の、
部分集合でしかない。
尺の問題もある。
短い物語を長くすれば冗長だし、
長い物語をカットすれば物足りない。
「100万回生きた猫」はあの長さがベストだと思う。
「いけちゃんとぼく」はあれがベストではないといまだに思う。
(そもそも映画形式の物語に変換出来るのかどうかの確信もない)
映画は、世の中の全てではない。
そう思えば、力みも取れるものだ。
映画形式の、ただ面白い物語を量産すればよいのだ。
10億とか生活で見ない金のことは、気にすることはない。
もし新たな映画に足る形式が発明出来れば、
あなたは映画物語の可能性を広げるかも知れない。
(デジタル化が、半ば強制的に映画物語を変質させつつある)
どちらにせよ、映画は、世の中の全ての物語形式の一部である。
狭い領域で、あなたは闘いをいどんでいることを自覚されたい。
(脚本家や監督が小説を書くのも、狭い領域以外に挑戦したかったのかも知れない)
2014年01月25日
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