行き詰まらずに書けるときには必要ないと、思う。
そもそも名作たりえる脚本というのは、
理論から生まれない。
名作脚本とは、
ある日突然、面白いことが浮かび、
取り憑かれたように書き、
勢いに任せたら完結して、
それが理論通りになっているものである。
そんな奇跡は、一生に数回しか起こらない。
(起こらない訳でもない。その奇跡は、必ずあなたの代表作になる。
僕の場合は、風魔の第一話だ)
自動的に脚本が書けないとき、
我々は理論にすがるのである。
全くダメな脚本を書く訳ではないから、
足りない所を理論的に足していくことになる。
感情移入の段取り、全体的な構成(長いとか短いとかも含めて)、
サブプロットの役割などの大きな部分から、
ちょっとしたどんでん返しや伏線などの、
小さなテクニック的な部分まで。
僕はたまに記事を読み返し、
今書いているのに何が足りないかを考える。
あるいは、過剰なのかも考える。
切るほうが足すより難しい。
理想に比べて、どこがどのようにいびつであるか考えると、
直す方向性が分かったりする。
また、一から書くのに、
脚本理論はあまり役に立たない。
車の運転を最初からスムーズに出来ないのと同じで、
脚本の執筆は、同時にいろんなことに気を配りながら書く必要がある。
慣れていないと、それは無意識下で処理できない。
(車の運転は、様々な注意事項を、意識下でチェックするところから始めて、
重要でないものは無意識下で処理できるようにすることだ。
凡そ体を使う行為は、そのように半自動化するのだ)
ある程度書けたとき、行き詰まったとき。
理論に立ち返り、理想型と現在の差を自覚し、
ありうべき方向に直していく。
そのとき、理論は理想型を示し、
試すべきアイデアを示唆するだろう。
僕はいくつかの理論書をたまに眺めては、
今書いているものを想定して、当てはめて考えてみる。
何も書いていないのに理論だけ読んだって、得るものはない。
(目から鱗は落ちるけど)
書く途中で、理論は役に立つときがある、
という程度で、皆さんの役に立つなら幸いだ。
2014年01月27日
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