映画の単位はカットであるが、
脚本の単位はシーンである。
(または複数のシーンで、ひとつの流れになるシークエンスが単位)
なぜ映画はワンシーンワンカットでないのか。
何故映画はカットを割るのか。
ワンシーンワンカットで思い出すのが、相米慎二の演出だ。
緊迫感やライブ感、生の緊張感があったが、
絵が変わらずに退屈なものもあった。
つまりこれが答えだ。
ワンカットは、持たないときがある。
持つときと持たないときは、
どういう時だろう。
持つときは、我々観客が、バッチリと映画にはまりこんでいるときだ。
ストーリー、芝居、絵、動き、音楽、
全てに入り込んみ、十分な緊張でいるときは、
ワンカットでも構わない。
(編集の極意でもあるが、カットを変えても気づかれない)
そして、実際に演出してみると分かるが、
全ての呼吸(タイミング)をバッチリ合わせるのは、
実は大変困難なのである。
芝居の間、カメラの動き、エキストラの動き、
音環境、それらとストーリーの進行、
全てがタイミングバッチリであることが、ワンカットの神が降りる条件だ。
これはオーケストラの指揮に似ている。
全てが揃って機能しないと駄目なのだ。
それが大抵困難だから、
編集でリズムをつくるのだ。
編集のリズムで、持つようにするのだ。
素では芝居が持たないから、ストーリーが持たないから、
即ちカットを割るのだ。
また、ワンカットに向く場面、向かない場面がある。
ストーリーの進行をワンカットで示すことは、実は難しい。
今必要な情報を、演劇的にではなく、
映画的に提示することは、かなりの振り付け力が必要だ。
それは、カメラへの正面性とリアリティーに関係がある。
人の会話の例を前項で話した。
横顔同士で話さないように、話すときは正面性を保つようにするには、
切り返しでなく特殊な立ち位置と目線を用意する必要がある。
(演劇においては、第四の壁を利用出来る)
後ろ手のナイフがアップになるなども出来ない。
必要な小道具などは、ワンカット内で、
正面性を保つように目立たせなければならない。
ヒキの中でナイフを見せても駄目だ。ある程度目立ち、
意味として観客が把握するためには、ある程度アップにする必要がある。
ズームするのはギャグだ。
カメラとナイフの距離を、そのカット内で近づけなければならない。
カメラが動くか、人が動くかして。
(昔ハイビジョン普及の為の言説で、
「サッカー場のヒキでも、選手の背番号が鮮明にうつるから、
誰だか確認できる」などとたわけたことを言っている者がいた。
カメラは人の目とは違う。今写しているものを写している。
ヒキの中で目立つ意味を写すには、アップにするのが映像文法だ。
カメラマンは、今撮るものの意図を絵にこめる。
今撮るものがヒキならば、選手の背番号が見えようが見えまいが関係ない。
その言説が正しかったかどうかは、今わかる。
背番号など、ヒキで確認してる人はいない)
カメラに近づけるために、芝居がリアリティーを失っては映画ではない。
だから、人の導線とカメラの導線で、それをつくることがある。
ナイフをアップにするときは、カメラが動くか人が歩くかして距離を近づける。
人が横を向いていたら、カメラが動くか人が歩くかして、
人の正面をとらえられるようにする。
つまり、カメラも第三の役者として、正面性を保つために参加させるのだ。
スピルバーグはこの手の振り付けの達人だ。
「AI」で、直角にターン出来るレールを開発したことは有名だ。
鏡や窓の反射をつかい、ワンカット内に情報を盛り込むことも得意だ。
(三面鏡に別々のものを写しこむ演出などは白眉)
カメラが動くことで、絵が次々と変わり、進行している感覚にもなってゆく。
しかしながら、これは芝居をじっくり撮るには向かない。
カメラという役者が、人間の芝居に邪魔だからだ。
二人きりの芝居は、二人でやったほうが真剣味が出る。
実は、ワンカットに向くのは、このふたつである。
トリッキーな撮り方で全てが振り付けされているパターンと、
ライブ感と真剣味が徹底的に必要な、緊張の高まる場面だ。
前者はセットアップのようなダンドリ場面で使われ、
後者はどうなるか分からない集中力の必要な、
クライマックスやターニングポイントで使われる。
どちらにせよ、観客の集中力が必要な場面に、
ワンシーンワンカットが使われるのだ。
映画は、集中と弛緩である。
音が無音と有音であるように。
全場面集中出来るシナリオなら、必然的にワンシーンワンカットでもいける。
しかし、映画はそうでないから、
普段はカットを割ってリズムをコントロールし、
ここぞというときにワンカットで勝負するのである。
さて、相米慎二のワンシーンワンカットとは何だったか。
元々アイドル映画が多く、やつらは芝居が下手なので、
カットを割ったら芝居が変わってしまうので、
ワンカット内に芝居を納めないと彼らの集中力が持たなかったからだそうだ。
ついでに予算もなく、ワンカットでないと撮りきれないくらい時間がなかったらしい。
いわば苦肉の策だったのだ。
結果的によかった所と、持ってない所があるのはそのせいだ。
何故映画はカットを割るのか。
割ることにより、映像文法を獲得した。
クローズアップにより、同時進行する別々の視点に、瞬時に立てるようになった。
進行しながらも別の意図が進行しているように描けるようになった。
カットバックにより、二項対立が描けるようになった。
モンタージュにより、意味をコントロール出来る可能性が出来た。
(悲しい場面のあとに男の無表情を繋ぐと、悲しんでいるように見える)
これらの効果を、ワンカットでは表現し難いからである。
勿論、カメラ込みの振り付けや、二人きりの芝居だけでそれを出来れば構わない。
それ以上にモンタージュの力の方が強力になるときは、
監督はカットを割るのである。
カットとはモンタージュである。
あとひとつ、ワンカットに向くものがある。
芸である。
ダンスや歌をワンカットでじっくり見せたり、
アクションやカンフーをワンカットで見せたり、
手品を編集せず見せたり(合成ものワンカットの驚きは、本質的にこれ)、
大道芸的なもの、つまり映画の外でも価値のあるパフォーマンスは、
ワンカットでも持つ。
つまり、映画のワンカットは、これらに匹敵しない限りは、
ワンカットの価値がない。
その価値があるときだけワンカットでやればよく、
それ以外はモンタージュでつくる。
そして、モンタージュだけが、
映画的なストーリーテリングを保証するのである。
あなたの脚本の中には、
二項対立や、同時進行する複数の意図や、
芸に匹敵する素晴らしさや、物凄い緊張感やライブ感が、
緊張と弛緩があるだろうか。
そもそもなければ、この議論は意味がない。
脚本とは、そのストーリーを提供するものである。
2014年01月27日
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ファンとして、あれは、竜魔、蘭子、姫子のカット割りがほしかったなあと今でも思っています。主人公である小次郎の成長した証であるからこその名シーン台詞を、3人がどう受け止めたのか。
もしかして監督の意図は別にあったのかもしれませんが、自分はそこを読み切れず、単純に最終回は尺がないんだなーという、駆け足の印象をもってしまいました。
観客側にも、シーンを読み解く力というのは必要だとは思います。ドラマって難しいですね。