2014年01月28日

調べものの重要性

件のプロデューサーや監督は、
「赤ちゃんポスト」のwikiすらも見なかったのだろうか。
件の病院の元院長が市長になってできたシステムであること、
日本で唯一であること、世界中にいくつかしかないこと、
そもそも賛否両論のデリケートさ。

とくに実在の問題を扱うとき、
我々は作家であると同時に、ジャーナリストでなければならない。

叩かれるような内容を書くな、と言っている訳ではない。
ある種の確信を持って書くことは、作家としての志であり、
決して臭いものに蓋式に、ヤバいものは止めとけ、
という思考停止は無能であってはならない。
単なるマンセーも思考停止だ。

問題は、センセーショナリズムの裏に、
人間のどのような問題が広がっているか、
つぶさに観察して、客観的に見ていることだ。

「明日、ママがいない」のスポンサー全撤退の問題だ。
ちょっと刺されただけで全撤退はないだろう。
センセーショナリズムは、この横並びを尊しとなす国なら、
刺されて当たり前だろう。
刺されても、刺さらない準備を、何故しないのだろう。


野島伸司は、今更注目の必要のない作家である。
僕は「Gold」で見限った。
昔から、レズ、レイプ、近親相姦、禁断の愛(全部「高校教師」か)
など、センセーショナリズムを扱いながら、
実はその題材を看板に使うだけで、
中身はそれ以外の人間ドラマを書く作家だということは、
分かっていた筈だ。

何かありそうな、社会問題を孕んだネタで過激さを出し、
その社会問題とは関係ないドラマを描く。
つまり、タブーネタは餌にすぎない。
その羊頭狗肉が野島伸司の作家性だ。
昔は羊と狗のバランスが良かった。
しかし羊ばかりが目立つようになり、
肉すら入っていないものが最近続いた。

すなわち、赤ちゃんポストは、
野島にとっては看板にしか使わない、
新たなタブーネタにすぎない。
件のドラマを見ていないが、
恐らくたいして面白くないのだろう。
面白ければ賛否両論になるからだ。
(ドリフがあれだけ揉めてもなくならなかったのは、
面白かったからだ。テレビでは、面白いことが正義だ)
面白ければ、社会的意義について擁護者も現れる。
表現の自由への自主規制という、日本的問題の論争にもなるだろう。
面白くないということは、実はそれだけで問題なのである。



それとは別に、ジャーナリズム的な観点は重要である。
ジャーナリズムとは、
社会的問題に対して、
偏ることなく問題の本質を捉えることと、
問題の周辺についておおよそ全て調べあげておくことと、
そこにある種の理想や正解を提言することだ。
(最後の要素については、報告の範囲ではないから、
ジャーナリズムの範囲かどうかはグレーである。
しかし、その問題を告発すること自体、
正義感が動機であることに違いない。
この場合正義とは、
左翼的には人権主義に基づいた民主主義社会の倫理、
右翼的には旧来の繋がりや身内の絆を大切にすることだ。
見識不足が誤った結論への誘導にならぬよう、
ジャーナリストは徹底的に見識を深めるべきである)

この問題で言えば、
赤ちゃんポストの存在自体に賛否がある。
(その題材への嗅覚は流石野島である)
賛は人道主義だ。偽善も善なりと行動する人達だ。
(キリスト教的価値観。そういえば、熊本は伝統的に
隠れキリシタンの地である)
否は育児放棄などの甘えを助長すると主張する人達だ。
(責任を伴う自由主義)
その後の法体制も、これが正解なのかと反対派は疑問を呈している。

正解はない。ないから社会的問題である。

赤ちゃんポストを巡る様々な主張について、
どんな人がどんな立場で言っているかを、調べる必要がある。
つまり、この問題のシナリオ設定を探す。

その人の過去、立場、目的、主張。
その人の背負う団体の立場。
本音で言っている場合と、嘘(外向けのポーズ)で言っている場合。
その及ぶ権力。建前と本音。
それらの人々の間に働く力学。
つまりはコンフリクトである。

この複雑にコンフリクトのある現実に対して、
それを戯画化した物語を投入してどんな波紋が生じるか、
誰も何も想像しえなかったのか。
赤ちゃんポストはあるべきか/偽善かで論争が起きるとでも思ったのか。

起こりうる当然の波紋は、
赤ちゃんポストを題材に取り上げただけで起こる、
賛の人からの好意的な万能、
否の人からの、題材を取り上げただけで起こる拒否反応
(それはどの題材でも、センセーショナリズムだけで必ず一定数起こる)、
多くの「聞いたことはある/知らない」の浮動層のどちらでもない反応、
「へえ、そんなものがあるのか」だ。


否定派を黙らせるような、
強力な主張を用意すべきだ。
例えば、
この問題を明るみにすることに社会的意義がある、
などである。クレームにはこれで対処する。
我々は賛も否もどちらの立場も取らない。
それは皆さんが考えることであり、
そのための偏った情報ではなく、公平な情報を描くように善処する。
我々が描きたいのは、他の社会的問題、例えば貧困や差別と同様、
人間の極限で炙り出される、人間ドラマである。
意図的な「問題への提言」ではなく、
それがあるという啓蒙なのだ。
むしろ、我々が継続してこの問題を考えられるように、
一緒に知恵を絞って考えられないか。
などである。


当のスポンサーだって、簡単に答えられた筈だ。
「ドラマに悪役が必要なのは当然だ。
ドラマとは人間の逆境における本質を炙り出すことであり、
今回の舞台がたまたま赤ちゃんポストという逆境だった。
たしかに偏見を植えつけるような描きかたをしたが、
あれは序盤の物語であり、あの悪役が改心することで平和が訪れる、
全体の物語として見てほしい。
我々はその物語全体をスポンサードするのであり、
そのことで、世間へ赤ちゃんポストの存在を問いたいのだ。
もし一部を見て偏見の助長になるおそれがあるのなら、
全部を見てから結論を出してください、などのテロップを出して対応しようかと思う」
などと回答すればよいのだ。
ドラマのスポンサードとは、そのぐらいドラマを理解もせずにしてはいけない。
必要とあれば、ジャーナリズム的な観点から、
この物語の立ち位置を説明できなくてはならない。
我々はこう思ってこのドラマをつくっている、
問題や懸念はごもっともだが、
最善のケアはするので、どうかこの物語を世に問うてから、
世間に判を仰ごうではないか、
と、作り手の立場に立つべきだ。


物語は、ジャーナリズム的な社会的状況から、
どれだけ嘘をついて、人の願望を掬い上げるか、
というものでもある。
その社会的状況と、願望を意識しておく必要がある。
(多くの場合、言葉になっていない、直感として存在する)

今回、悪役は二人いる。
ジャーナリズム的な観点から、客観的に問題を捉えていないプロデューサーと、
問題があるからと言って、問題の本質について思考停止している、
ドラマのことも知らないただ商品を売りたいだけのスポンサーだ。
(代表的スポンサーのCMを見れば、各企業が、
ドラマ的な事をどう捉えているかを知ることが出来る)

彼らは脚本家の志を理解せず、
だから擁護もせず、
だから淘汰されてゆく。
ドラマにとっての良き理解者でなかっただけである。
そんな人達のプレゼントは、
ドラマを愛する我々は遠慮する。


我々脚本家に、
常に最良の味方がついているとは限らない。
物語のやりたいこと、やるべきことを理解し、
社会的問題の地位やスタンスを調べつくし、
言わなくても防波堤を築いてくれるとは限らない。

だから脚本家は、調べものをちゃんとして、
「描こうとするジャンルの最高権威」になる必要がある。


今回の件で言えば、
赤ちゃんポストの発祥の、外国の地であったことを取材し、
それを元に日本版に翻案すれば、
何の問題もなかった筈だ。
当の病院からクレームが来たとしても、
それ以前の本国の事件に基づくのですから、
と断言できる。
ただし、日本唯一の赤ちゃんポストであるその病院には、
なるべく迷惑がかからないようにします、
などと対応出来るはずだ。


事前に、空が落ちてくるかもと、心配することは得策ではない。
もし何か起こっても、いくらでも対処出来る。
何故なら我々には、我々の主張や調べた根拠があるからだ、
と胸をはるのが、正しいものづくりのあり方だ。
posted by おおおかとしひこ at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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