件のプロデューサーや監督は、
「赤ちゃんポスト」のwikiすらも見なかったのだろうか。
件の病院の元院長が市長になってできたシステムであること、
日本で唯一であること、世界中にいくつかしかないこと、
そもそも賛否両論のデリケートさ。
とくに実在の問題を扱うとき、
我々は作家であると同時に、ジャーナリストでなければならない。
叩かれるような内容を書くな、と言っている訳ではない。
ある種の確信を持って書くことは、作家としての志であり、
決して臭いものに蓋式に、ヤバいものは止めとけ、
という思考停止は無能であってはならない。
単なるマンセーも思考停止だ。
問題は、センセーショナリズムの裏に、
人間のどのような問題が広がっているか、
つぶさに観察して、客観的に見ていることだ。
「明日、ママがいない」のスポンサー全撤退の問題だ。
ちょっと刺されただけで全撤退はないだろう。
センセーショナリズムは、この横並びを尊しとなす国なら、
刺されて当たり前だろう。
刺されても、刺さらない準備を、何故しないのだろう。
野島伸司は、今更注目の必要のない作家である。
僕は「Gold」で見限った。
昔から、レズ、レイプ、近親相姦、禁断の愛(全部「高校教師」か)
など、センセーショナリズムを扱いながら、
実はその題材を看板に使うだけで、
中身はそれ以外の人間ドラマを書く作家だということは、
分かっていた筈だ。
何かありそうな、社会問題を孕んだネタで過激さを出し、
その社会問題とは関係ないドラマを描く。
つまり、タブーネタは餌にすぎない。
その羊頭狗肉が野島伸司の作家性だ。
昔は羊と狗のバランスが良かった。
しかし羊ばかりが目立つようになり、
肉すら入っていないものが最近続いた。
すなわち、赤ちゃんポストは、
野島にとっては看板にしか使わない、
新たなタブーネタにすぎない。
件のドラマを見ていないが、
恐らくたいして面白くないのだろう。
面白ければ賛否両論になるからだ。
(ドリフがあれだけ揉めてもなくならなかったのは、
面白かったからだ。テレビでは、面白いことが正義だ)
面白ければ、社会的意義について擁護者も現れる。
表現の自由への自主規制という、日本的問題の論争にもなるだろう。
面白くないということは、実はそれだけで問題なのである。
それとは別に、ジャーナリズム的な観点は重要である。
ジャーナリズムとは、
社会的問題に対して、
偏ることなく問題の本質を捉えることと、
問題の周辺についておおよそ全て調べあげておくことと、
そこにある種の理想や正解を提言することだ。
(最後の要素については、報告の範囲ではないから、
ジャーナリズムの範囲かどうかはグレーである。
しかし、その問題を告発すること自体、
正義感が動機であることに違いない。
この場合正義とは、
左翼的には人権主義に基づいた民主主義社会の倫理、
右翼的には旧来の繋がりや身内の絆を大切にすることだ。
見識不足が誤った結論への誘導にならぬよう、
ジャーナリストは徹底的に見識を深めるべきである)
この問題で言えば、
赤ちゃんポストの存在自体に賛否がある。
(その題材への嗅覚は流石野島である)
賛は人道主義だ。偽善も善なりと行動する人達だ。
(キリスト教的価値観。そういえば、熊本は伝統的に
隠れキリシタンの地である)
否は育児放棄などの甘えを助長すると主張する人達だ。
(責任を伴う自由主義)
その後の法体制も、これが正解なのかと反対派は疑問を呈している。
正解はない。ないから社会的問題である。
赤ちゃんポストを巡る様々な主張について、
どんな人がどんな立場で言っているかを、調べる必要がある。
つまり、この問題のシナリオ設定を探す。
その人の過去、立場、目的、主張。
その人の背負う団体の立場。
本音で言っている場合と、嘘(外向けのポーズ)で言っている場合。
その及ぶ権力。建前と本音。
それらの人々の間に働く力学。
つまりはコンフリクトである。
この複雑にコンフリクトのある現実に対して、
それを戯画化した物語を投入してどんな波紋が生じるか、
誰も何も想像しえなかったのか。
赤ちゃんポストはあるべきか/偽善かで論争が起きるとでも思ったのか。
起こりうる当然の波紋は、
赤ちゃんポストを題材に取り上げただけで起こる、
賛の人からの好意的な万能、
否の人からの、題材を取り上げただけで起こる拒否反応
(それはどの題材でも、センセーショナリズムだけで必ず一定数起こる)、
多くの「聞いたことはある/知らない」の浮動層のどちらでもない反応、
「へえ、そんなものがあるのか」だ。
否定派を黙らせるような、
強力な主張を用意すべきだ。
例えば、
この問題を明るみにすることに社会的意義がある、
などである。クレームにはこれで対処する。
我々は賛も否もどちらの立場も取らない。
それは皆さんが考えることであり、
そのための偏った情報ではなく、公平な情報を描くように善処する。
我々が描きたいのは、他の社会的問題、例えば貧困や差別と同様、
人間の極限で炙り出される、人間ドラマである。
意図的な「問題への提言」ではなく、
それがあるという啓蒙なのだ。
むしろ、我々が継続してこの問題を考えられるように、
一緒に知恵を絞って考えられないか。
などである。
当のスポンサーだって、簡単に答えられた筈だ。
「ドラマに悪役が必要なのは当然だ。
ドラマとは人間の逆境における本質を炙り出すことであり、
今回の舞台がたまたま赤ちゃんポストという逆境だった。
たしかに偏見を植えつけるような描きかたをしたが、
あれは序盤の物語であり、あの悪役が改心することで平和が訪れる、
全体の物語として見てほしい。
我々はその物語全体をスポンサードするのであり、
そのことで、世間へ赤ちゃんポストの存在を問いたいのだ。
もし一部を見て偏見の助長になるおそれがあるのなら、
全部を見てから結論を出してください、などのテロップを出して対応しようかと思う」
などと回答すればよいのだ。
ドラマのスポンサードとは、そのぐらいドラマを理解もせずにしてはいけない。
必要とあれば、ジャーナリズム的な観点から、
この物語の立ち位置を説明できなくてはならない。
我々はこう思ってこのドラマをつくっている、
問題や懸念はごもっともだが、
最善のケアはするので、どうかこの物語を世に問うてから、
世間に判を仰ごうではないか、
と、作り手の立場に立つべきだ。
物語は、ジャーナリズム的な社会的状況から、
どれだけ嘘をついて、人の願望を掬い上げるか、
というものでもある。
その社会的状況と、願望を意識しておく必要がある。
(多くの場合、言葉になっていない、直感として存在する)
今回、悪役は二人いる。
ジャーナリズム的な観点から、客観的に問題を捉えていないプロデューサーと、
問題があるからと言って、問題の本質について思考停止している、
ドラマのことも知らないただ商品を売りたいだけのスポンサーだ。
(代表的スポンサーのCMを見れば、各企業が、
ドラマ的な事をどう捉えているかを知ることが出来る)
彼らは脚本家の志を理解せず、
だから擁護もせず、
だから淘汰されてゆく。
ドラマにとっての良き理解者でなかっただけである。
そんな人達のプレゼントは、
ドラマを愛する我々は遠慮する。
我々脚本家に、
常に最良の味方がついているとは限らない。
物語のやりたいこと、やるべきことを理解し、
社会的問題の地位やスタンスを調べつくし、
言わなくても防波堤を築いてくれるとは限らない。
だから脚本家は、調べものをちゃんとして、
「描こうとするジャンルの最高権威」になる必要がある。
今回の件で言えば、
赤ちゃんポストの発祥の、外国の地であったことを取材し、
それを元に日本版に翻案すれば、
何の問題もなかった筈だ。
当の病院からクレームが来たとしても、
それ以前の本国の事件に基づくのですから、
と断言できる。
ただし、日本唯一の赤ちゃんポストであるその病院には、
なるべく迷惑がかからないようにします、
などと対応出来るはずだ。
事前に、空が落ちてくるかもと、心配することは得策ではない。
もし何か起こっても、いくらでも対処出来る。
何故なら我々には、我々の主張や調べた根拠があるからだ、
と胸をはるのが、正しいものづくりのあり方だ。
2014年01月28日
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