我々はドキュメント作家でもジャーナリストでもない。
フィクションをつくるものだ。
つまり、嘘つきだ。
そんな世界はないのに、さもあるようにリアリティーをつくる。
嘘つきには二種類いる。
上等な嘘つきと、下手くそな嘘つきだ。
上等な嘘つきは、
世界のリアリティーがある。
本当なのか嘘なのか、それはどちらでもよいぐらいに、
世界の構築がきちんと出来ている。
上等な嘘つきの構築する世界は、
現実を一時忘れさせる。
この場合の現実とは、現実の嫌なことのことだ。
個人的なトラウマ、心配事、組織的な問題、
それらを思い出させることは、
一切ない。
ディズニーのような夢の世界は、それが徹底されている。
人は死なないし、そもそも人じゃないし、
カラフルだし、汚れやごみはないし、
病気や災厄や津波は襲って来ない。
悪役は本当に悪いから、死んでも仕方ないし、
改心すら許されない。
主人公たちが手を下すことはなく、
自らの愚かさで死んでいく。(例えば転落死)
「誰も不幸にならない、ユートピア」と言ってよい。
ディズニーランドでは、
周りの町並みが見えないように巧みに壁などで隠したり、
ゴミが落ちていないように清掃が徹底される。
それは、嘘をつくための方法論でもある。
これが最上級の嘘かどうかは、
議論の余地がある。
我々のリアリティーの感覚は、
微妙に「まあ、ディズニーの世界だからなあ」と思う。
それは、やはり嘘臭いということだ。
なんだろう、新興宗教を感じる。
だからだろう。作品世界を愛する人は、信者と呼ばれる。
カリスマ的作品をつくる作者は、信者を生む。
リアリティーがなかろうと、他の人が胡散臭いと思っても、
信者たちが一生ついていく世界がある。
狭くても深ければOKの世界だ。
これを目指すには圧倒的な妄想力と、ディテール構築力がいる。
キチガイ一歩手前の突破力もいる。
(我らが車田先生は、この天才の部類だ)
翻って映画である。
ディズニーに嘘くささを感じる人は、
映画的な感性の持ち主だ。
(強者は、ディズニーはディズニーで、分かった上で楽しむ)
リアルな嘘を要求する。
本当にありそうなことに興味がある。
しかし、その本当らしさと嘘の案配は、様々な配合がある。
(リアリティーの階層でも話した)
この世界との地続き感覚が、映画を観る上での基本感覚である。
ユートピアはこの世にないという感覚が、ディズニーにのめり込むのに警鐘を鳴らす。
映画に入り込むのは、もう少し現実の痛みや嫌なことも込みである。
コーヒーが甘いだけでは駄目で、苦さがあるから意味がある。
その甘さと苦さの配分を考えてみる。
「ディアドクター」は一見リアルな世界ベースの嘘に見える。
田舎の人間関係、風景、八千草薫、井川遥、余貴美子、
リアルベースの世界構築をしているように見える。
だが、
「釣瓶が無免許医師で、一番人道的」という一番の嘘が、
大きなファンタジーなのだ。
そんな人が世の中にいるのか。
よく考えると、釣瓶の人を助けたい動機はなにか。
彼は何のために医師をしているのか。
ちょっと出来たから、そういう位置におさまった、
のは分かるが、それでもそんな人間は、
何十年もそこに留まれたのだろうか。
たとえばきちんと仕事をしている大工を見て、何も思わなかったのか。
そう思っていた大工が、案外失敗することもある、
と知って、まあ俺もそれでええやろ、と思うなどのリアリティー構築はない。
単なる小物の詐欺師なら、ラスト、変装してまで八千草の前に現れる理由がなくなる。
つまり、この世界の奥底には、
「騙してでもいいから、愛してほしい」というファンタジーがあるのだ。
これは女の作家のものである。
だから八千草、井川、余に圧倒的な生活感、
地に足がついた感じがあり、
逆に瑛太、釣瓶にファンタジー成分を背負わせているのだ。
瑛太のスポーツカーや若手イケメンぶり(巨人の星で言えば花形並の嘘くささ)
がそれを証明している。
女の作家にとっては、女側がどうしようもないリアルで、
男側がどうしようもないファンタジーだ。
(逆を考えれば分かる。男子高校生の、女にファンタジーを求める感覚)
「夢売る二人」も「ゆれる」も、この構造は同じだ。
実は、何故この男がこの女を愛しているかにリアリティーがない。
(愛していたところから話を始めていて、それを避けている)
それは、男の作家にありがちな、
「ヒロインが何故ヒーローを好きになったのか分からない」
ことと、同じことなのだ。
「騙してでも、愛してほしい」は、恐らく多くの女の願望であり、
ファンタジーだ。(男のファンタジーが、「オレツエエー」であるように)
つまり、西川美和とは、圧倒的な女的リアリティーの中に、
男というファンタジーを入れ込む作家である。
僕は長らく彼女の映画が受ける理由が分からなかった。
ファンタジーなんだ、と気づいたのは最近だ。
男がロッキーを好きなのと、同じなのだ。
嘘は、実は徹底的にファンタジーなほうがいい。
9のリアリティーに1の嘘を入れるのがコツだとすると、
そこに1の嘘ではなく、10の嘘を入れるイメージだ。
(数字は数ではなく大きさのイメージ)
この10の嘘のために、残り9との整合性をとってゆく。
7のリアリティーに、3の嘘を散りばめる方法論もある。
その場合、嘘は1から2ぐらいのものを、各所にばらまく感じだ。
4のリアリティーに、6の嘘もある。これはコメディの配合かも知れない。
ディズニーは、10の嘘だ。
虚と実、つまりリアリティーと嘘をどのように配合して行くかは、
作家次第である。
(野島伸司は、昔は6のリアリティーに7の嘘を乗っけてきた。
今は7の嘘に0のリアリティーだ。10に足りていない)
自分のつくる話の、虚と実がどんなものかを考えてみよう。
それが他の作家とどう違うのかも考えよう。
客観性とは、そのようなことも言う。
自覚的に嘘をつこう。
それが誤魔化しなのか、ファンタジーかを自覚しよう。
配合は、作品内で統一性を持とう。
急に配合が変わったら、語りの人格が変わったり、ご都合に見える。
我々は上等な嘘つきだ。
虚と実を自覚的に使いこなして、はじめて上等である。
2014年01月29日
この記事へのトラックバック
くらいに思ってましたが、ちょっとおおげさすぎて奇を衒いすぎで悪趣味に思えました。
「現実離れしてて、誰もこれが本当の事とは思わないだろうから、モデルと目される団体や子供達に迷惑かからないでしょ?」とか
「今はネットで誰でもいくらでも真実を調べられるから、僕は問題提起してあげるだけ。物議をかもしてよくも悪くも社会問題として話題になれば結果的に良いんじゃ?」
って調べものを視聴者に委ねる甘えを感じます。
真実を理解した上でのあの作品なら、今が変でも見守るけど、影響や弊害も想像できないただの妄想なら、視聴者が我慢までして最後のクライマックスまで見続けると思うなよ。甘えんな。って思いました。
全くの素人だけど、大岡さんのファンタジーとリアリティ論、なんか合点がいって面白かったです。