2014年01月30日

手綱の緩め方

小説と違い、脚本では、
最初からギリギリに引き絞った完成品を出すわけではない。
プロットや第一稿は探りであり、
「そこからどこへ着地するか」という伺いでもある。
(ひどい場合は叩き台になる。つまり、叩かれて全直しだ)
それは、映画が一人でつくるものではなく、
複数の人間でつくるものだからだ。

小説、絵画、音楽など、伝統的な芸術では、
作者が完成したと言えばそれで完成である。

その出来は作者の責任であり、
それ以外の誰も責任を負わない。

ところが、複製行為が可能になった近代のマス芸術、
すなわち、レコード、出版、放送、上映、上演などでは、
作者は一人でも、「複製して広める人」がいる。
「複製して広める人」は、内容に責任を追う。
だから、「そもそも何を、どんな形でつくるか」について、
意見を持つ。
しかも、市場の動向を見て、商売人としての嗅覚も必要だ。

我々は物語の作者だが、自分が一人で責任を負える訳ではない。
矢面に立ち、責任を分かち合う、「複製して広める人」が、
プロジェクトの規模に応じて、何人もいる。
この人を、プロデューサーや、編集者、広告代理店などと、
各業界で異なる言い方をする。

さて、
「会議に関わる人が多いほど、無難になる」
という経験則を書いておこう。
尖ったり、先進的だったり、斬新だったり、すごいことは、
この「会議」によって、
丸められたり、並のものになり、古くさいものになり、平凡なものになる。
「より面白くしろ」という会議に、最近僕は出会ったことがない。
(若手の頃はあった。その時の会議の人数は、三人ぐらいまでだった)

我々書き手からすれば、負の修正が入るのである。
その修正は、様々な立場から個別に出されるため、
首尾一貫した要求ではなく、バラバラなものである。
Aという要請、Bという修正、Cという要求、
それぞれに矛盾がない保証はない。
ABCが矛盾していれば、作者にとってパラノイア的要求である。

普通は、プロデューサーが作者のつくる方向性、
つくるべき方向性を理解し、要求との矛盾解消に動いてくれる。
Aと作者との妥協点を探したり、
妥協するだけでなく更にジャンプする方法を見いだしたり、
Aを重視するためCには引っ込んでもらう、などである。

プロデューサーがそこまで有能ではない場合、
作者がその交通整理の能力がなければ、務まらない。
作者に客観性がないと、ここで破綻する。
6割はコミュニケーション能力と書いたのも、ここだ。


僕は、最近、第一稿から全力を出さなくなった。
昔は、マックスを見せてアピールすることをしたかったので、
第一稿はキレキレ極まりないことに、ギリギリまで挑戦していた。
しかしそれは、現実には「削られ続ける」こととの闘いだ。
不毛な防衛戦である。
最近、やり方を変えている。
綿中蔵針、という口伝が中国拳法にある。
接触はあくまで柔らかく、中に針を含む意味だ。
最初から針を出さないことだ。

馬は最初から全力で走っては、スパートが出来なくなる。
最初は手綱をゆるめ、プロデューサー達の出方を見る。
完成品のレベルでなく、提出する。
何に乗ってきて、どこに気づいて、何に気づかないかを見る。
色々話す上で、自分の命である作品を預けるに値する人物であるか、
その読解力や構成力や人柄や、頭のよさを見る。
手綱を絞る価値があれば、そこで引き絞る。
ただ、まだ全力はとっておく。
プロジェクトの途中で、新たなプロデューサーも出てくるからだ。
製作委員会が出来上がるまで、
手綱は緩めておく。全力をいつ出すか見極めるために。


製作レースを完走する経験がないと、手綱の配分は予測出来ない。
ちなみに、製作委員会は毎回異なるメンバーだ。
僕がCMの世界へいったのは、
そのシミュレーションを何度もするためだ。

手綱の絞り方が分かって、
ようやくレースを上手く走れるようになるのだ。
次は息切れしない。そうやって、力の出し方が分かってくるだろう。

作品を一人でつくるだけでは、
脚本家として不十分だ。
一人で書く力も当然あるし、みんなで配分するやり方も、
両方出来なければならない。
それはつまり、書く立場である馬と、
その手綱をコントロールする御者と、
そもそもどこへいくべきかを指示する馬車の主と、
三人あなたの中にいなければならない、ということだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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