2014年01月30日

パンフォーカスとボケ

写真の技術的な話をするが、最後は脚本論に戻すつもりで書く。
(少なくとも、写真がどのように撮られているかを知ることは、
映画の基礎知識でもある)

パンフォーカスとは、
写真の中の全てにピントが合っている事を言う。

パンフォーカスは特別なことだ。
何故なら、たいていボケが入るからである。


レンズと被写体の関係を考えよう。
ピントには、距離というものがある。
ピントをある距離に合わせると、
その前後ある程度の距離までピントがあい、
それ以外の距離のものはボケる(おおむね、ピント距離から遠いほどボケる)。

これを、深度という専門用語で表現する。
深度が深い、というのは、被写体の前後のピントの合う距離が長いことを言い、
浅いとは、それが短いことを言う。

深度の深い写真とは、殆どの距離のものにピントが合っていることであり、
(パンフォーカスとは深度が見かけ上無限のこと)
深度の浅い写真とは、被写体以外にピントが合っていて、それ以外がボケてる写真のことだ。
(深度は、使用レンズによって異なる。
プロは、レンズのミリ数、絞り値、シャッタースピード、感度、光量、
レンズとの距離、フィルタ、レンズの種類によって、深度をコントロールする)


写真が生まれたころは、パンフォーカスが理想だった。
なによりも記録性を重視する場合、ピンボケは駄目だ。
被写体にも背景にも手前にもピントが合うべきだ。
報道カメラでは、なるべくパンフォーカスの写真が撮れるように、
レンズが工夫されている。
(報道用レンズ、というのがビデオカメラ用にある。
要は深度を深くチューニングしたレンズだ)

しかし、次第に、ボケをミスではなく表現として使うようになった。

例えばポートレイト(人のアップ)だ。
背景がボケる表現はいまやスタンダードだ。
背景がボケることで、人しか目がいかないようになる。
最近の料理写真などは、手前や奥をボカシている表現が多い。

絵に例えると、例えば静物画をかくときに、
対象物である花瓶や花の背景に、淡い色のバックを描くのがボケ表現だ。
背景と、被写体を分離するのである。
極端なものが錦絵で、
人物の絵の背景は、単色バックやグラデーションバックだったりする。
日本画は、とくにこの背景の省略の発達した絵画のジャンルだ。
金屏風などは、背景を省略し、金で塗りつぶす。

印象派が何故日本で人気かというと、省略の理解があるからである。
本宮ひろ志の描く漫画は、この背景の省略が日本画的なことで有名だ。
(この話は「天地を喰らう」連載時に、中学の担任横手先生に習った)
空に雲も描かない。トーンも貼らない。
ただ何も描かない白が、空を表現する。
余白の美、という言葉もある。

ムービーにおいても、白バック、空バック
(雲や光の空ではなく、ただの淡い水色としての空。
これを表現するため、土手や屋上というシチュエーションは多用される)、
背景ボカシは、この意図で使われる。

前ボケ(被写体の後ろのボケだけでなく、手前にも深度の外のものを
持ってきてボケを入れること。ナメなどが代表的)も
ボケ表現の一部である。


パンフォーカスは昔の考え方で、
ボケを使うのは近代的な考え方だ。

例えば「市民ケーン」には、
有名なパンフォーカスショットがある。
ナメショットなのに、手前と奧の両方にピントが合っている。
当時の機材では撮影不可能なこのショットは、
手前と奧を別々にピントを合わせて撮り、画面半分ずつを合成したそうだ。
(スプリットスクリーンによる二重露光。現在は二面割りとして知られる、
カメラがフィックスのとき可能な最も簡単な合成法だ)
パンフォーカスの意図は分からない。
手前ボケのナメがどうしても嫌だった、としか言いようがない。
(長玉だから、絞って、光量たいて、感度上げても無理だったのだろう)

西洋の伝統的な油絵は、パンフォーカスが基本である。
全てを綿密にかきこみ、永遠の時間の中に閉じ込める。
一方、ボケの表現は、にじみを使う水墨画だと思うとよい。

水墨画の見方をご存知だろうか。
よい水墨画は、視線の誘導がある。
全体を見たとき、最初に目のいくところを決めておき、
そこから視線が誘導されるように構図と濃淡を決めるのである。
全体に濃なら、淡に目がいく。全体に淡なら濃が最初だ。
そこから、道や山や枝や動物や人の向きなどで、
順路どおりに視線が自然に誘導されるのがよい水墨画だ。
更によい水墨画は、その順にストーリーが描いてあるという。
(どこから見てよいか分からない水墨画は、二流だ。
ちなみに、活け花も基本この原則である。
だから活け花は立体のくせに、見る角度、すなわち正面がある。
西洋の絵画はシンメトリーを尊重するが、
活け花でも水墨画でも、左右対称は動きがないとして嫌われる。
左右非対称が動きの源泉である。
活け花では、「心」の字の書き順が理想のひとつという。
点や長いものの組み合わせ、左右非対称に、動きを見いだす)

にじみ(ボケ)は、このためにある。
つまり、重要なものとそうでないものを分離し、
濃淡にグラデーションを施して、
視線を誘導するためにあるのだ。


現在の映画のカットの考え方も、基本これを原則としている。
ボケを使うことで、対象と背景を分離し、
視線を誘導する。(切り返しは典型だ。左右に視線を誘導する)
リアルタイムで進む物語には、
実時間で情報をつかんでもらう必要がある。
だから、余計な部分は捨て(ボケの中に入れ)、
残った部分が見てほしいところとなる。
水墨画の原理での視線誘導が、
目の流れであり、絵の流れであり、物語の流れになるように、
映画は撮影され、編集されるのである。


パンフォーカスは男性的である。
地図の中での己の立ち位置を確定し、全てをコントロールする。
硬い。静止的だ。
ボケは女性的だ。
興味のあるところだけ見て、あとはフワッとするだけ。
柔らかい。流動的だ。


先日のCM撮影で、ポスターとCMを同じスタジオセットでやることになった。
ポスターチームはパンフォーカスを撮りたがり、
我々CMチームはボケを撮りたがった。
狙いはドキュメントだ。
写真のドキュメントとは、恐らく永遠に残る記録写真であり、
ムービーのドキュメントとは、一度しか訪れない動きや流れのことである。
だから、ポスターとCMで、真逆な絵づくりとなってしまい、
結構な手間がかかってしまった。



さて、僕の脚本論を読んでいれば、
物語とは動きのことであり、パンフォーカスのことではないことが予測出来るだろう。

脚本家が注意すべきことは、
物語をパンフォーカス的に書いてしまってはいけない、ということだ。
それぞれを子細に眺めたり、永遠に眺める余裕は、
リアルタイムで見るものにとってはない。

単位時間あたりの情報量は、多いとパンクする。
写真におけるボケのように、
必要な対象だけピントを合わせ、
その他はボケの中に入れよう。
それは何かを捨てることで情報を整理する方法論だ。
(パンフォーカスは、情報を足算してゆく。
例えば全部を設定したり、省略せずに全部を説明したり、
言わなくても分かることを台詞で言ったりのことだ)

流れは、水のように流れる。
そのように脚本を書くには、
自分がパンフォーカスを狙っていることを自覚したら、
ボケ写真を撮るような気持ちになってはどうか。
posted by おおおかとしひこ at 02:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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