2014年02月11日

プロットの小説(小説と映画の違い2)

プロットの小説、という言い方があるのを思い出した。
プロットでない小説もある、ということだ。
これは映画脚本から見れば、奇妙な話だ。

つまり、小説には、プロット以外の要素もあるのである。
それらのうち、プロットが突出したものをプロットの小説という、
ということだ。

プロット以外の要素とは何だろう。
キャラクター、舞台設定、テーマ性、文体、と分けてみることにする。
これらは、映画脚本に比べ、どれも小説の方が強力であり、
脚本は、プロットの小説と似ている、という話をしようと思う。


キャラクター:

台詞に関しては、小説と脚本は同等に見える。
目で読む文字と音に出す文字の差は、あることはある。

音声言語は、歯切れのよさや節回しやイントネーションが大事で、
同音異義語を避ける、繰り返しや長台詞には特別の配慮が必要、
などの特徴が、小説の台詞に比べてある。
一方、小説の台詞は、音の小気味良さは使いづらい。
その代わり、小説では、相手のリアクションまでのリアル時間がないため、
リアクションを無視して、長い台詞を書くことが出来る。
どちらも一長一短であり、
一字一句小説と映画で変換可能なものと、そうでないものがある。

キャラクターは台詞だけではない。
地の文まで含むと、小説が圧倒的だ。
キャラクター性は地の文で描写する、と言っていいくらいだ。

見た目
(想像力を膨らませるように書くことが出来る。
世界一の美女に彼には思えた、と書くことは可能だが、
たとえミス世界一をキャスティングしても、
この地の文は映像で表現出来ない。
とびきりの美女、までは表現出来る)、
考え方や哲学
(こう思った、という即時的なことだけでなく、
そもそもこう思っていた、考えていた、計画していた、
普段このような哲学を実践している、などは、
目の前で起こっている「現在」と、同時に地の文で書くことが出来る)、
彼の過去の経験
(これについては既に書いた。つまり、現在との重ね合わせだ)、
蘊蓄
(個人的思いだけでなく、客観的な事実を書くことが出来る。
SFでは木星の重力を利用したスイングバイの加速を地の文で解説することが出来るが、
映画ではビジュアルで見せるか、説明台詞になる)、
などを地の文で豊かに表現するのが、
キャラクター描写だ。

これは、ト書きでは書けない。
ト書きは、現在カメラで撮れるものだけを書く。
映像では、台詞と行動でしかこれらを表現出来ない。
彼が何を考えているか、どのような哲学のもと行動するかは、
彼の心の声をナレーションで被せない限り、
彼の表情と台詞と行動から察するしかないのである。

また、映像は、生身の役者が演ずることを忘れてはならない。
どんな役者がキャスティングされるかにより、
役というのは微妙に方向性が変わる。
見た目もさることながら、役者の表現力、
彼の背負っているストーリーなどが影響する。
(沢尻エリカ本人のストーリーがなければ、
「ヘルタースケルター」は成立しない。興行とは、そのような同時代性がある。
少し前ならこの役が出来たが、今更同じ役を振れない、
とキャスティングで苦労することもある)

肉体を通す芝居は、役者の能力に比例する。
得意なところと苦手なところがあって当然だ。
監督は、それを見抜き、チューニングしながら撮影を進める。
役への解釈も、役者により異なる。
ある台詞をどういう気持ちで言っているかを
コントロールすることで、同じ言葉を違う意味に表現出来ることは、
「台詞は嘘をつく」でも書いた。
だから、台詞の裏にある感情の特定、
その裏にある、役の知っていること知らないこと、やろうとしていること、
などを特定しないと、芝居は出来ない。
その読解や想像は、役者によっても、監督によっても異なる。
(実写「風魔の小次郎」の、それぞれのキャラクター像は、
僕と役者たちの共同創作だ。監督と役者が異なれば、それは別解である。
特に小次郎、姫子、竜魔、霧風、劉鵬、壬生、夜叉姫、絵里奈、そして陽炎は、
かなり創作要素が強い。八将軍全体が役者を活かしている。
舞台版は監督が違うだけなのに、役柄は微妙に異なる)

脚本というものは、
これらを鑑みて、わざと遊びをつくっておかなければならない。
脚本は、脚本完成でフィニッシュではないからだ。
一方、小説は、文字の完成が作品の完成である。
書かれた文字が作品の全てであり、書かれていないことは存在しない。
作品世界は全て文字のなかにある。

開かれた脚本の書き方とは、キャラクター性でも大きく違うのだ。
そのため、脚本で最もキャラクター性を示すのは、
行動だったりするのだ。(台詞は嘘をつくから)
対比的に、小説では地の文が真実であろう。


舞台設定:

CGの発達で、今では金さえかければ、
つくれない絵はない。
実写のスペクタクル性は、小説のそれを上回るだろう。
ところが、これは脚本には細部は書いていない。
起こることは書くが、それが実写的にどうすごいのか、
それはスタッフの仕事だからだ。
(例えば風魔13話は、海が割れる、としか脚本上には書けない。
具体的な海のCG、波頭の水しぶき、唸る風などは、
各スタッフの力である)

一方小説では、物語周辺の設定について、
原理的に詰めていくことが可能だ。
たとえば中世を舞台にした作品では、
当時の貨幣事情について、細かく書くことが出来る。
どれくらい偽の硬貨が出回っていたか、
それを見分ける方法について、などを解説してもよい。
それが物語に以降使われなくとも、
世界観の描写としてリアリティーを高めていればOKだ。
このようなことは、映画では普通しない。
偽の硬貨とその見分け方は、のちに伏線として使われない限り、
カットの対象だ。それを説明している間にドラマが進まないからだ。
(話のピボットとして使うのは構わない。しかしそれすらも伏線として使うのが、
一流の脚本である)
単にそのものを写す以上の、解説の必要な描写については、
映像では伏線とならない限り、本編内に存在することはない、
といってもよい。

脚本的なテクニックでいえば、
例えば出社するまで、登校するまでを冒頭で描いておいて、
そのなかで世界観を織り込むことがよく使われる。
これまで議論してきたように、
それは異物と出会う8分から15分以前に描くのなら、
世界設定として、好意的に認識される。
(「のぼうの城」では、佐藤浩市が、馬にまたがり、城内を見廻りする、
という理由で、城の周りの位置関係を設定する、
という巧みなパートがある。
しかし、うまく撮影されていないので、ここのパートは結果的に退屈で、
その後の攻防戦での伏線になり得ていない。
一方、「タイタニック」では、タイタニック号がどうやって沈むかを、
前振りしてあり、その通りに沈没が進むことを知っている我々は、
そっちへ行っちゃダメだ!とのめりこむことになる。
上手い世界設定と、下手な世界設定の例である)

小説では、おそらくこれほどまでに、
舞台設定の良し悪しを問われることはない。
読んでて心地よい文章であれば、
何も問題はないからだ。これは、文体のところで再び議論しよう。


テーマ性:

小説では、実在の問題を題材にする、表現の自由がある。
ルポルタージュ、ジャーナリズム、反社会的行為ですら、
表現には、自由が認められる、と原則的には考えるのが現代社会だ。
(反社会的行為については、グレーである)
山崎豊子「沈まぬ太陽」は当時のJALをモデルにした社会派小説だが、
映画になるまでに何十年とかかった。
つまり、映画の表現の自由は、小説の表現の自由より少ない。

映画会社、配給会社、スポンサー(製作委員会)など、
複数の「責任者」が存在する映画では、
「危険」なものは敬遠されるのが常だ。
それが気にくわない、とする無頼派もいるが、
あくまでマイナーである。

小説では、そこに描かれた真実性の方が重要だ。
芸術とは、真実をえぐり出すことだ。
作者がその領域にゆけば、それが芸術として価値あると思えば、
編集者および出版元が、全力で表現の自由を守るものだ。
(昨今、日和る人も多いが)

一方、映画では、チェックゲートが異常に多い。
表現の自由より、クレームが来ないことを優先させる。
(有名な例は、「車で逃走する銀行強盗が、シートベルトをしている」
というものだ。いくらなんでもこれはないだろう。
ドラマではそれが常識だという。車メーカーが、他番組のスポンサーだ、
という配慮だそうだ。銀行強盗がそんなものに配慮するわけないだろう。
「いけちゃんとぼく」では、不良になったミサコさんが、
野球のベースで一服吸うのが、禁煙パイポにしてくれと言われた。
何の配慮なのか、いまだに分からない)

表現の自由度でいえば、
小説>漫画>映画>ドラマ>CM
とでもなろうか。


文体:

小説では、触れる文体の心地よさも重要な要素だ。
極端に言えば、話が進まなくても面白い、
という境地があると思う。
人物の思いや、哲学や、経験から導かれた法則や、
世界の真実や、蘊蓄や解説や、
詩的な言葉の組み合わせやギャグを、
読んでいるだけで幸せになる状態だ。
それは、恋人との会話に似ている。
ただ一緒にいたくて、何をしゃべるかはもうどうでもいい状態だ。
たとえば、森見登美彦などは特徴的だ。

話が進まなくても、というのが興味深い。
話、すなわちプロットが進まなくても、
小説は「持つ」のである。

一方、話を進めずに、映画内で持たせることは出来るだろうか。
例外を除き、否である。
アクションシーン、ラブシーン、グロシーン、
歌やダンスなどの芸のシーンは、持つ。
(アクション映画、恋愛映画、恐怖映画、ミュージカルなど、
ジャンル映画は、その専門を楽しむものだ。
一方、これらをそうでない映画に入れても、持つ)

が、せいぜい3分だろう。
それ以上は、何らかのストーリー進行がないと、
どんなによいそれでも、退屈がやってくる。
(パントマイムの達人、チャップリンの芸ですら、
この原則に従う。「ライムライト」では、芸のパートが、
その恐るべき完成度とは関係なく、退屈なパートだ。
それは、その芸のあいだ、ストーリーが進まないからだ)

特別な映像文法の映画作家を挙げてみよう。
撮影クリストファー・ドイルのウォン・カーワイ作品を、
改めて見て、ストーリーのつまらなさに愕然としたことがある。
「天使の涙」「恋する惑星」二部作での、
当時あれほど先進的だった映像文法
(ワイドレンズ手持ちの、夜を中心としたミックスライティング。
光量を稼ぐ為にシャッタースピードを落としたストロボ的な動き、
水の反射を生かすために、あらゆるところに水をまいた画面、
即興的演出で、どこへ向かうか分からないストーリー、
湿度と色の豊富な香港という異世界、
窓から降り注ぐ、昼間の強烈な光、
前近代の汚れた世界と、希望を探す繊細な心の対比)
を今みると、あまりの古さに退屈してしまう。

フォロワーである岩井俊二の世界もそうだが、
これらは流行であったばかりに、
急速に古くなっている。(つまりは、ファッションということだ)
あとは、内容(お話)となる。
岩井俊二は見てられるが、ウォン・カーワイはしんどい。

つまり、文体でなく、プロットに、話は戻ってくる。


映画の脚本は、プロットが本体であり、
基本であり、全てである。
台詞のない行動が人物を現すのだから、
台詞に全面的に頼るのも間違いだ。

一方、それ以外の要素も重要なのが、小説である。
脚本は中間状態、小説は完成形、という差も大きいだろう。

プロットの小説でないものは、
映画脚本には向かない。
(映画脚本にする段階で、プロットをきちんと立てなければならない)
プロットの足りない映画はダメ映画だ。


では、プロットとは、一体何を差しているのか。
項を変えて、話をしようと思う。つづく。
posted by おおおかとしひこ at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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