いいものがヒットし、駄目なものはヒットしない、
と考えるのは、健康だし理想だが、現実はそうではない。
いいものなのにヒットしなかったり、
駄目なものなのにヒットしたり(流行るかどうかではなく、
興行成績がよい)する。
いいものをつくるのは制作部の仕事で、
ヒットさせるのは宣伝部や興行部の仕事、
と会社組織的に考える
(事件は現場ではなく、会議室で起きている)と、
問題が見えてくる。
「いいもの」の定義は難しい。
映画はマス芸術であるから、
尖りすぎているものは、いいものには含まれない。
しかし、ヌルイものはいいものではない。
いいものは、作品たりえる。
バラエティーやショーや告知で十分なものは、いい作品ではない。
(逆にいいバラエティーやショーの中には作品たりえるものもある)
感情を十分に皆で共有し、新しい発見があり、
楽しめるもので、何かを持って帰れるもので、
人生に少なからず影響を与えるものだ。
その向いているベクトルは、メジャーの方向で、
マイナーを向いていない。
僕は、いいものをつくるのが仕事だ。
しかし、毎回凄くいいものが出来る訳ではない。
まぐれ当たりもあるし、外れもある。
会心の一撃と思っていても、タイミングが合わなければいいと思われないものもある。
(多少外れたとしても尚いいものがつくれているか、
が実は真の実力を示しているという批評もある)
経験のないものをつくったら未熟だろうし、
手慣れたからといって手癖がついてもよくない。
新鮮だからこそまぐれ当たりは起こることもある。
いずれにせよ、創作というものは、ばらつきがある。
そのばらつきを事前に予測することは出来ない。
ある種の天気予報だ。
天気予報を出来る人によっては当たりと外れの分水嶺を分析出来たりするが、
分からない人にとっては、当たるときもあるし外れるときもある、
よく分からないものである。
一方、配給は全国的な会社組織だ。
会社というのは、(その理由は分からないが)
毎年毎年一定の利益をあげなければいけない。
税金の仕組みなのか、給料の仕組みなのか、
一定の収入、というのが会社組織の運営のようだ。
会社は、一定の収穫を前提として、
各人の作業内容に差があまりなく、
労働時間に比較的比例しやすい農業に近いが、
我々の創作は漁業に近い。
一定の収益を前提とする会社組織と、
大量もあれば不作もある創作は、
そもそも本質的に齟齬がある。
ある脚本を見て、それがヒットするかヒットしないかを、
完全にわかる人はいない。
それが「いいものであるかどうか」は判断出来る。
(もっとも、それすら読解力のない人も沢山いるが)
が、それが、要求する一定の収益(以上)をもたらすかは、
誰にも分からない。これが第二の原因だ。
つまり、配給側から見れば、
不安定なものを、安定させたヒットにしなければいけない。
これらがもたらす結果は、
「ヒットさせられるものしか、ヒットさせられない」
というループ構造だ。
例えば、テレビドラマ発の映画や、
テレビ局で大量宣伝する映画が増えたのは、
そのような構造に乗っからないとヒットさせられない、
という業界の構造的な仕組みだ。
(そしてそんな映画は色んな政治のため、詰まらない、
ということに、みんな気づいている)
確実に数字を持っているところを取る考え方だ。
人気俳優、人気原作、人気アーティストを採用し、
それらを見に来る人を観客と考える考え方である。
この方式に、「作品のできのよさ」は入っていない。
それは、「数字を持っている人を出して数字を稼ぐ」
という視聴率主義のやり方だからだ。
(バラエティーが雛壇ばかりになり、
番組に企画性がなくなっていったことと同じである)
「原作つきしかやらない」という東宝を中心とした考え方は、
それがヒットを見込めるから、ではなく、
そうでないと金を集められないから、というループに今陥っている。
ご存知のように、その商売のやり方は、
初期には作品のできのよさに支えられていたが、
原作レイプやご都合人事のために、
作品を台無しにしたゴミ映画で溢れる、
ゴミ番組で溢れるテレビと同じ惨状になっている。
映画会社は、複合組織である。
色んな部門があり、それぞれが個々の専門力を発揮し、
個々ではなしえない複合体をなすのが理想である。
しかしそれは理想であり、現実にはこうではない。
製作部門と宣伝部門は別部署であり人事的交流がないため、
無能な宣伝部を抱えたまま製作部門がつくる映画を台無しにし続ける、
角川映画という会社組織もある。
(この話をすると長くなるので割愛したいが、
唯一言いたいことは、僕は監督という作品の責任者の立場であり、
広告の専門家でもあるにも関わらず、
予告編やポスターにノータッチにさせられたことだ。
本編のエンドロール作業中、今日予告編初号試写がある、と言われて仰天した。
存在も知らず、一度も見ていないのに、予告編が完成したというのだ。
普段のCM作業では考えられない。
コンセプトとキャッチコピー、ラフな編集方針、仮編集、零号と、
少なくとも4回ある大事なイベントに、僕は一度も声をかけられないばかりか、
騙し討ちにあったのだ。
とくにポスターのネタバレとデザインの下手さについては怒りの声をあげたが、
既に輪転機は回っていると開き直った宣伝部を、僕は一生許さないだろう)
例えば、
角川映画はソニーミュージックと関係が深いから、
「いけちゃんとぼく」の主題歌は、ソニーミュージックのアーティストから選ばねばならない。
僕の希望は何も通らない。
その時のその事務所のイチオシの若手を押しつけられ、
僕は歌詞を見せてくれと言った。
映画の内容とかけ離れた歌詞だったので、却下した。
第二候補は、ソニーミュージックから選ばねばならない。
僕は「知っている」という理由だけで渡辺さんを選んだ。
歌詞世界の打ち合わせや、ソニーの売りたい方向と、
この映画で目指すことの打ち合わせは一度もなく、
来たものを張りつけただけだ。
主題歌なのに、ぼくは一度も音楽チームと会っていない。
それは、角川とソニーのいつものやり方だという。
つまり、その組織の、いつものやり方でしか、
それをつくることが出来ない。
創作とは、毎回つくるものの違うことをいう。
それをつくるのに、いつものやり方があるわけがない。
にも関わらず、ウチはこうだから、
あるいは組織上のやり取りで、という政治が、
優先させられる。(というか、優先させるというアナウンスすらない)
あるいは、いけちゃん関連グッズに関しても、
僕は何の相談も受けていない。
初日に、関連グッズを劇場で見させられて、その出来の悪さに愕然とした。
いけちゃんの公式カラーは原作と同じ黄色にしたが、
いつの間にか黄緑になってるし。
ぬいぐるみの出来の悪さについては、ググって見るとよい。
立体化するなら、CGの3Dモデリングデータ及びその粘土原型を渡すべきだが、
それすらしなかったようだ。
(CG部には、依頼が来たとき用にデータを軽くする指示まで出していたが、
その打診は一度もなかったそうである)
そんな劣悪なやり方では、粗悪品しか生まない。
というか、それは、いいものをつくるやり方ではない。
いいものをつくるときは、
「このようなものをつくりたい」というビジョンがあり、
それを(妥協も含め)つくるやり方から考えなければならない。
僕は、たとえ仲のいいカメラマンであっても、
狙いの絵が違うときは、はじめてのカメラマンにですら頼みにいく。
創作とは、毎回違うものをつくることであり、
工業製品のようにルーチンワークから生まれるものではない。
(いけちゃんに関しては、DVDのジャケットすら、
勝手にデザインされて既にプレスされていた。怒るポイントが見つからない)
一方興行サイドだ。
ヒットさせられるものしかヒットさせられない、
関連業者の集合体で、その中からスタッフィングしなければいけないばかりか、
それすら告知されない体制だ。
規定の芸能事務所を使い、規定のスタッフを使い、
規定の宣伝しか出来ない。
その代わり、全国にスクリーンは沢山持っていて、
それが一斉に同じことをする仕組みになっている。
その「同じこと」は、本当に同じことだ。
だから、「そこで出来るもの」しか、つくれない。
○スカー事務所を見ればわかる。
あの女優を売るために、原作を見つけてきているだけだ。
これは何かに似ていないか。
公共工事だ。
定期的に雇うことで仕事をつくって安定的な金の循環をうみ、
同じものを作り続ける。
(そして公共工事にはない、雇う人にカルテルがある)
この枠内でしか、今映画はつくれない。
だからダメになり続けている。
もうひとつある。「頭でっかち」という問題だ。
ひょっとすると、日本の今の会社組織の問題の話をしているのかも知れない。
次回につづく。
2014年02月18日
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