2014年02月08日

編集は、編集室でするものではない

編集を編集室でやると思う人はど素人だ。
編集とは、具体的にはバラバラのフィルムを繋いで一本にすることだが、
実際には、素材のタイムコードの確定だと僕は思っている。
それには、ふたつの要素がある。
ひとつには、流れの質と間を確定させること。
もうひとつは、構成を確定させることだ。

編集室でやることは、前者である。
後者は、どこでやるのか。


脚本段階である。

全体の構成を、編集室で練り直していては遅い。
そしてそのようなフィルムは、必ず失敗する。
ある狙いで撮っているものを、別の狙いで繋ぐことは、
原理的に難しい。編集室で構成を変えることは、
そもそもそのように撮っていないものを、
別の狙いで繋ぎ直すことを意味する。
撮影とはshootであり、ある狙いのもとに撮られている。
それが別の狙いで繋がれるということは、
意味においてねじれが生じる。
つまりは、よくない繋ぎになる。
(これを防ぐために、どのような繋ぎにも耐えられるように撮影してくれ、
と宣うど阿呆が時々いる。どのようにも解釈できるものは、何にも使えないものだけだ。
つまり、ダメなカットだけを繋げる、恐ろしいダメ作品になる)
たまに変だな、と違和感を感じる所は、
編集段階で構成を変えた部分であることが多い。

これを避けるには、
脚本段階で、これしかない、という構成を練り込み、
そこからぶれないことである。
途中、これでよいのだろうかと不安になってはダメだ。
撮影中のヨレは、編集のヨレとなり、仕上がりのヨレとなる。
多少のプロのテクニックでカバー出来るものの、
脚本から狙いがきちんと定められていて、
撮影もその狙いを十分にとらえ、
編集もその狙いで繋がれている、ヨレていない作品に、
勝てる訳がない。


構成とは、時間軸のコントロールだ。
何にどれくらい時間を割き、
何を見せて何を見せないかを決め、
見せる順番を意図的にすることで、
自然な流れをつくったり違和感のある流れをつくったりする。
理解の順番やスピードをコントロールし、
情動の流れをどうコントロールするかを決めることである。

具体的には、シーンの順番や、何を落とすのかや、
何を残すのかを決めたり、
尺の調整をすることである。

脚本執筆中には、さかんにこれをする。
していないダメな脚本は、すぐ分かる。
この形がベストかどうか、考えられていない作品は、
ぶよぶよに太った女のようだ。
考え尽くされた脚本は、長身のアスリートの女のような、
無駄がなく美しい機能で満ちているものだ。
シーンの順番は一意に決まり、
全く無駄がなく、見せるべき所と見せない所が、
練った上で吟味されている。

それは、執筆時にしか自由にいじれない。
寧ろ、リライトとは、そこを決めることである。
ある種の足しひきをやって、ベストの形を決めるのだ。

こんな難しいパズルが、編集室で出来る訳がない。


構成が編集室まで揉めている仕事は、
大抵失敗作になる。
少なくともCMはそうだ。編集で化ける訳がない。
理由は前述の通りだ。

脚本は、撮影で更に増幅され、編集で更に増幅される。
しかし、本質的には、撮影も編集も脚本を越えることはできない。
それを分かってない人が増えてきた。
デジタルだから、何とでもなると思っている。
否である。
何故なら、人のアイデアはデジタルではないからだ。
魂はアナログだ。
デジタルは、アナログを増幅することは出来ない。
デジタルが出来るのは、コピペとレイヤー重ねだけである。
そのおおもとの魂がダメなら、何をやったって無駄なのだ。


時々、脚本の狙いよりいいものが撮れたりする。
その時、編集室で迷う。
当初の狙いを維持するのか、新しく組み換えるべきか。
編集室は、その時だけ脚本の場になる。
編集とは、もう一度脚本を書く行為になる。

編集室とは、そのような神聖な場所だ。
誰かが好みで繋ぎを変える主張をする、権力闘争の場ではない。
posted by おおおかとしひこ at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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