編集を編集室でやると思う人はど素人だ。
編集とは、具体的にはバラバラのフィルムを繋いで一本にすることだが、
実際には、素材のタイムコードの確定だと僕は思っている。
それには、ふたつの要素がある。
ひとつには、流れの質と間を確定させること。
もうひとつは、構成を確定させることだ。
編集室でやることは、前者である。
後者は、どこでやるのか。
脚本段階である。
全体の構成を、編集室で練り直していては遅い。
そしてそのようなフィルムは、必ず失敗する。
ある狙いで撮っているものを、別の狙いで繋ぐことは、
原理的に難しい。編集室で構成を変えることは、
そもそもそのように撮っていないものを、
別の狙いで繋ぎ直すことを意味する。
撮影とはshootであり、ある狙いのもとに撮られている。
それが別の狙いで繋がれるということは、
意味においてねじれが生じる。
つまりは、よくない繋ぎになる。
(これを防ぐために、どのような繋ぎにも耐えられるように撮影してくれ、
と宣うど阿呆が時々いる。どのようにも解釈できるものは、何にも使えないものだけだ。
つまり、ダメなカットだけを繋げる、恐ろしいダメ作品になる)
たまに変だな、と違和感を感じる所は、
編集段階で構成を変えた部分であることが多い。
これを避けるには、
脚本段階で、これしかない、という構成を練り込み、
そこからぶれないことである。
途中、これでよいのだろうかと不安になってはダメだ。
撮影中のヨレは、編集のヨレとなり、仕上がりのヨレとなる。
多少のプロのテクニックでカバー出来るものの、
脚本から狙いがきちんと定められていて、
撮影もその狙いを十分にとらえ、
編集もその狙いで繋がれている、ヨレていない作品に、
勝てる訳がない。
構成とは、時間軸のコントロールだ。
何にどれくらい時間を割き、
何を見せて何を見せないかを決め、
見せる順番を意図的にすることで、
自然な流れをつくったり違和感のある流れをつくったりする。
理解の順番やスピードをコントロールし、
情動の流れをどうコントロールするかを決めることである。
具体的には、シーンの順番や、何を落とすのかや、
何を残すのかを決めたり、
尺の調整をすることである。
脚本執筆中には、さかんにこれをする。
していないダメな脚本は、すぐ分かる。
この形がベストかどうか、考えられていない作品は、
ぶよぶよに太った女のようだ。
考え尽くされた脚本は、長身のアスリートの女のような、
無駄がなく美しい機能で満ちているものだ。
シーンの順番は一意に決まり、
全く無駄がなく、見せるべき所と見せない所が、
練った上で吟味されている。
それは、執筆時にしか自由にいじれない。
寧ろ、リライトとは、そこを決めることである。
ある種の足しひきをやって、ベストの形を決めるのだ。
こんな難しいパズルが、編集室で出来る訳がない。
構成が編集室まで揉めている仕事は、
大抵失敗作になる。
少なくともCMはそうだ。編集で化ける訳がない。
理由は前述の通りだ。
脚本は、撮影で更に増幅され、編集で更に増幅される。
しかし、本質的には、撮影も編集も脚本を越えることはできない。
それを分かってない人が増えてきた。
デジタルだから、何とでもなると思っている。
否である。
何故なら、人のアイデアはデジタルではないからだ。
魂はアナログだ。
デジタルは、アナログを増幅することは出来ない。
デジタルが出来るのは、コピペとレイヤー重ねだけである。
そのおおもとの魂がダメなら、何をやったって無駄なのだ。
時々、脚本の狙いよりいいものが撮れたりする。
その時、編集室で迷う。
当初の狙いを維持するのか、新しく組み換えるべきか。
編集室は、その時だけ脚本の場になる。
編集とは、もう一度脚本を書く行為になる。
編集室とは、そのような神聖な場所だ。
誰かが好みで繋ぎを変える主張をする、権力闘争の場ではない。
2014年02月08日
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