自分がテレビに出ている夢を見た。
夢の中で自分の顔を見るのははじめてかも知れない。
普段は、自分の目から見た世界(すなわち主観ショット)でしか見ない。
一人称視点である。
鏡を使わない限り、自分を見ることが出来ない。
(夢の中では鏡は出てこない、という別の話があるが、ここでは触れない)
これが、初めて三人称視点になった。
そのとき俺自身の意識は、テレビを見ている俺であり、
テレビのなかで喋る内容を考えている俺でもあった。
人形使いのような意識、というべきか。
優れた役者は、このような目線を内在化させていると思う。
翻って我々脚本家だ。
物語を書く初期段階は、一人称視点だと思う。
自分から見た世界のあり方や変化やドラマを書く。
自分は登場しない。
地の文は自分の思うことであり、感想であり、
哲学であり、観察である。
「私」が登場する物語だとしても、
それは他の登場人物に比べて、別格の特別の存在だ。
私は死なないし、私の思うことほど、他人の思うことは分からない。
つまり、一人称とは、
自他の差があり、自己を描くことである。
映画は三人称形式である。
他人しか出ない。そこに自他の差はない。
自己は描かず、他人のみを描く。
地の文に、私の思いや感想を書いてはいけない。
他人の全体が、私が描くこと、という視点である。
映像形式で、
一人称、二人称、三人称視点を確認してみよう。
一人称映像:
カメラから見た映像。
撮影者の手や足が一部うつることもあるが、
基本自分はうつらない。
カメラへの目線やアクションは、自分に向けられたものだ。
カメラの外から、自分の声が聞こえたり、字幕で出ることで、
自分の思考や思いを知ることが出来る。
体験を追体験させるために、自分は一切介入しないタイプのものもある。
(クローバーフィールド、ハメ撮りなど)
技術的には、「主観映像」と呼ぶ。
(ハリウッドでは、POV: point of viewと呼ぶ)
手ぶれで絵がよく見えない(ステディを使っても止め絵がない)、
全体が見えない(部分しかうつらない)ことが欠点だ。
(それを利用して、部分しか分からない恐怖を描く、
ホラーやスリラーに多用される)
二人称映像:
デート体験ムービーなどが代表的。
誰かを撮っていることで、その人といる気分になる。
その人が話しかけてくるのはカメラにである。
話しかけてくるその人が主たる被写体だが、視点は主観、
というややねじれた構造だ。
アイドルのデート場面を見たいが、
誰か具体的な男と絡むのを見るのは嫌だ、
という我が儘を叶える方法論だが、
そもそもの動機が幼稚なため、洗練された手法ではない。
(実験映画にも使われがち。ポートピア連続殺人事件は、これがネタだ)
ビデオレターなどは、一人称映像でありながら、
二人称映像の意味と言えるだろう。
三人称映像:
他人同士が何かやっているのを、撮る。
カット割によって、まるでその輪の中にいるように錯覚させ、
感情移入によって、誰かの視点に立てるようにする。
(感情移入とは、三人称視点が一人称視点になること、
と言ってもよいだろう)
カメラが存在していない、ということが、
これを見る上での約束事だ。(演劇における第四の壁と同じ)
だから、カメラ目線はしてはいけない。
カメラ目線は、一人称もしくは二人称を意味し、三人称視点を崩す。
例外的に、三人称形式内で、
感情移入や追体験性を強調するために、
その人の主観映像を挟み込むことがある。
その人から見た景色や、その人の解釈(誤解も含む)などだ。
目覚めるときに、誰かがのぞきこんだり、
逆に薄れ行く意識の中で誰かがのぞきこんで叫んでいる、
などは頻出である。
また、狙撃スコープや望遠鏡やカメラで何かを見ている絵も主観だ。
カメラで盗撮していて、カメラ目線になれば、
それは勘づかれた、という意味の文脈になる。
メタ視点映像:
希に、それらを分かった上で、その文法を崩して遊ぶこともある。
どうせカメラで撮ってることは分かってるだろ?
という視点だ。
「アニー・ホール」のなかでウッディアレンが、
突然カメラ目線になって劇の文脈にツッコミを入れる。
手塚漫画の多くには、作者が出てきてぼやいたりする。
北条司はよくコマ横にセルフツッコミを書いていたが、
80年代当時はそれはメタ視点と高く評価されていた。
(今では当たり前すぎて、それをしないことが潔いとされる)
演劇における第四の壁を壊す方法は、
演者を客席に仕込んだり、観客をステージに上げたりすることだ。
「こちらと、あちら」を壊して一体になろうとすることは、
全てメタ視点である。
映像の最前線はエロであるが、
ハメ撮りにおいては、
視点が次々と変換する。
そもそも一人称視点としてセックスを追体験するのが主旨だが、
フェラを横のアングルから撮ればそれは三人称視点である。
が、それでカメラ目線になった瞬間、
それはメタ視点経由の一人称視点になるのだ。
僕はバックの時に女優の顔側にカメラを置き、
女優にカメラ目線で喘がせるのが好きだが、
これは三人称視点とも二人称視点とも言える。
(鏡のうつりこみでカメラ目線になれば一人称視点だ)
男優との会話は一人称視点だが、
男の存在が見えた瞬間、一人称で見ている我々は、
三人称視点に引き戻される。
男優がヒキを撮るため、カメラを置いてするのは、
三人称視点である。
クライマックス、顔射などがある場合、
一人称視点から、メタ視点経由でAVルールに従ったことを感じる。
そしてこれはショーであり、体験でもあり、
顔射が契約には入っていなかったが、
気持ちよくてノリここまでやってしまった素人のルール破りの感じであり、
それらの視点を同時に楽しむことが、
現代では当たり前のことである。
視点を統一することは、
芸術においては、斉一性を保つことは、最低限のルールだ。
全てをコントロール出来るようになってから、
ルール破りを楽しむべきである。
夢での三人称視点は、一人称視点に例外を持ち込んだ面白さだった。
視点を意識することは、
意識的に自と他を区別し、
優れた役者のように、それを楽しむまで能力を上げることである。
2014年02月07日
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