2014年02月07日

一人称視点と三人称視点

自分がテレビに出ている夢を見た。
夢の中で自分の顔を見るのははじめてかも知れない。
普段は、自分の目から見た世界(すなわち主観ショット)でしか見ない。
一人称視点である。
鏡を使わない限り、自分を見ることが出来ない。
(夢の中では鏡は出てこない、という別の話があるが、ここでは触れない)
これが、初めて三人称視点になった。
そのとき俺自身の意識は、テレビを見ている俺であり、
テレビのなかで喋る内容を考えている俺でもあった。
人形使いのような意識、というべきか。

優れた役者は、このような目線を内在化させていると思う。


翻って我々脚本家だ。

物語を書く初期段階は、一人称視点だと思う。
自分から見た世界のあり方や変化やドラマを書く。
自分は登場しない。
地の文は自分の思うことであり、感想であり、
哲学であり、観察である。
「私」が登場する物語だとしても、
それは他の登場人物に比べて、別格の特別の存在だ。
私は死なないし、私の思うことほど、他人の思うことは分からない。
つまり、一人称とは、
自他の差があり、自己を描くことである。

映画は三人称形式である。
他人しか出ない。そこに自他の差はない。
自己は描かず、他人のみを描く。
地の文に、私の思いや感想を書いてはいけない。
他人の全体が、私が描くこと、という視点である。


映像形式で、
一人称、二人称、三人称視点を確認してみよう。

一人称映像:

カメラから見た映像。
撮影者の手や足が一部うつることもあるが、
基本自分はうつらない。
カメラへの目線やアクションは、自分に向けられたものだ。
カメラの外から、自分の声が聞こえたり、字幕で出ることで、
自分の思考や思いを知ることが出来る。
体験を追体験させるために、自分は一切介入しないタイプのものもある。
(クローバーフィールド、ハメ撮りなど)
技術的には、「主観映像」と呼ぶ。
(ハリウッドでは、POV: point of viewと呼ぶ)
手ぶれで絵がよく見えない(ステディを使っても止め絵がない)、
全体が見えない(部分しかうつらない)ことが欠点だ。
(それを利用して、部分しか分からない恐怖を描く、
ホラーやスリラーに多用される)


二人称映像:

デート体験ムービーなどが代表的。
誰かを撮っていることで、その人といる気分になる。
その人が話しかけてくるのはカメラにである。
話しかけてくるその人が主たる被写体だが、視点は主観、
というややねじれた構造だ。
アイドルのデート場面を見たいが、
誰か具体的な男と絡むのを見るのは嫌だ、
という我が儘を叶える方法論だが、
そもそもの動機が幼稚なため、洗練された手法ではない。
(実験映画にも使われがち。ポートピア連続殺人事件は、これがネタだ)
ビデオレターなどは、一人称映像でありながら、
二人称映像の意味と言えるだろう。


三人称映像:

他人同士が何かやっているのを、撮る。
カット割によって、まるでその輪の中にいるように錯覚させ、
感情移入によって、誰かの視点に立てるようにする。
(感情移入とは、三人称視点が一人称視点になること、
と言ってもよいだろう)
カメラが存在していない、ということが、
これを見る上での約束事だ。(演劇における第四の壁と同じ)
だから、カメラ目線はしてはいけない。
カメラ目線は、一人称もしくは二人称を意味し、三人称視点を崩す。

例外的に、三人称形式内で、
感情移入や追体験性を強調するために、
その人の主観映像を挟み込むことがある。
その人から見た景色や、その人の解釈(誤解も含む)などだ。
目覚めるときに、誰かがのぞきこんだり、
逆に薄れ行く意識の中で誰かがのぞきこんで叫んでいる、
などは頻出である。
また、狙撃スコープや望遠鏡やカメラで何かを見ている絵も主観だ。
カメラで盗撮していて、カメラ目線になれば、
それは勘づかれた、という意味の文脈になる。


メタ視点映像:

希に、それらを分かった上で、その文法を崩して遊ぶこともある。
どうせカメラで撮ってることは分かってるだろ?
という視点だ。
「アニー・ホール」のなかでウッディアレンが、
突然カメラ目線になって劇の文脈にツッコミを入れる。
手塚漫画の多くには、作者が出てきてぼやいたりする。
北条司はよくコマ横にセルフツッコミを書いていたが、
80年代当時はそれはメタ視点と高く評価されていた。
(今では当たり前すぎて、それをしないことが潔いとされる)

演劇における第四の壁を壊す方法は、
演者を客席に仕込んだり、観客をステージに上げたりすることだ。
「こちらと、あちら」を壊して一体になろうとすることは、
全てメタ視点である。

映像の最前線はエロであるが、
ハメ撮りにおいては、
視点が次々と変換する。
そもそも一人称視点としてセックスを追体験するのが主旨だが、
フェラを横のアングルから撮ればそれは三人称視点である。
が、それでカメラ目線になった瞬間、
それはメタ視点経由の一人称視点になるのだ。

僕はバックの時に女優の顔側にカメラを置き、
女優にカメラ目線で喘がせるのが好きだが、
これは三人称視点とも二人称視点とも言える。
(鏡のうつりこみでカメラ目線になれば一人称視点だ)

男優との会話は一人称視点だが、
男の存在が見えた瞬間、一人称で見ている我々は、
三人称視点に引き戻される。

男優がヒキを撮るため、カメラを置いてするのは、
三人称視点である。

クライマックス、顔射などがある場合、
一人称視点から、メタ視点経由でAVルールに従ったことを感じる。
そしてこれはショーであり、体験でもあり、
顔射が契約には入っていなかったが、
気持ちよくてノリここまでやってしまった素人のルール破りの感じであり、
それらの視点を同時に楽しむことが、
現代では当たり前のことである。



視点を統一することは、
芸術においては、斉一性を保つことは、最低限のルールだ。
全てをコントロール出来るようになってから、
ルール破りを楽しむべきである。

夢での三人称視点は、一人称視点に例外を持ち込んだ面白さだった。
視点を意識することは、
意識的に自と他を区別し、
優れた役者のように、それを楽しむまで能力を上げることである。
posted by おおおかとしひこ at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック