話題の佐村河内氏の、ゴーストライターへの「指示書」を見た。
僕が見たものは、
図形的なものに数字の比率を入れ、全体的な構成を示したもので、
色々なイメージの言葉で周囲が装飾されたものだ。
あれが全てだとしたら
(何枚にも渡るものの表紙だけを全てと偏向報道されている可能性もある)、
かの指示書は創作ではない。
では、創作とは、何を言うのか。
創作とは、最終的な専門要素の確定のことを言う。
この例で言えば、音符の並びと和音などの編成を決めるところまでだ。
音楽は言葉では言えないからこそ、
それを示す言語がある。それは五線譜である。
かの指示書は、実際の作曲前の、「イメージをつめる段階」だ。
家を建てるとして、
大体こんな家に住みたい、
快適さと楽しさを4:6にして、こっち側は静けさと剛性を7:3に、
などは、イメージであり、
それを具体的な、壁や土台や屋根や柱や内装まで、
数字に起こして三次元的に構築し、構造計算や四季の対応や、
周囲の環境との兼ね合いまで考えた上、
図面に起こして、ようやく創作は完了である。
大体はイメージであり、具体的な記号の群れの組み合わせが創作だ。
どんなにイメージが細かくとも、
それが具体的な「形」を持たない限り、
それは創作ではない。
かの指示書は、図形で一見指示を出しているが、
大きな流れのことであり、
ある音符がどれくらいの長さで、次にどの音が来て、
という具体的な話をしていない。
ということは、単なる流れのイメージだ。
これはあくまでイメージ、と我々が言う場合は、
大きくはこういうことだが、
最終型はこのイメージに沿って、あらためてつくる、
という意味である。
この「つくる」という部分が本当の創作だ。
アイデアに著作権はなく、
実際の具体的な形、図面や楽譜や台詞に、著作権があると考えるのが
一般的である。
だってイメージは最終型の責任を問われないもの。
最終型がよくなくても、イメージの責任にはならないから。
イメージがそもそも悪かった、と判断する人はいない。
それは、イメージが、想像する人によって差異があり、
具体的な最終型を持たないからだ。
最終型をすぐつくることは出来ないから、
中間型として、イメージを先につくるのである。
中間型は、単なる媒介に過ぎない。
創作は、具体的に細かい所まで詰めた、最終型で決まる。
脚本でいえば、
まずは台詞である。
イメージで大体こんなことを言う、
怒りと悲しみの比率はこれこれで、かつ、小津作品のように、
という指示は、台詞ではない。
具体的な日本語の形、そのやりとりの具体のことだ。
イメージの提示は創作ではなく、台詞を書くことが創作だ。
そんなことが、何故か軽視されている。
頭で妄想したことが創作で、
手足を動かすのは、どこかの奴隷、と考えることだ。
創作は、まず手足を動かすことだ。
それが、ある頭脳に従っているとき、創作になるのである。
頭がよいから、イメージが豊かだから、は、
創作にある程度必要だが、
それ以上に必要なのは、手足の優秀さだ。
日本は職人の地位が低い。
あの程度の指示を「大体出来ている」と軽率に判断してしまうことが、
創作をしたことのない素人ばかりだという証拠だ。
大体イメージは出来ているが、書けない、
という初心者の話はよく聞く。
書けないのはイメージのせいではない。
書く才能がないからだ。書いてから言え。
書いてからが、ようやく評価のまな板である。
2014年02月08日
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