異性を主人公に書く者は、
自分の性を引き受けていない未熟者である、
という話をします。
僕は男なので、男の話から。
大体、書き手という人間は、そもそもが弱っちい。
普通の社会で強者に立てるのなら、
物語世界に現実逃避することもないし、
ましてや、膨大な時間を必要とする創作の世界に来る必要もない。
物語を書くには、それまでの相当量の物語経験がないと無理だ。
よほど好きでないと無理だ。
現実逃避が人生の半分以上を占めないと無理だ。
平たく言えば、リア充は、物語の創作には興味がない。
僕の好きな週刊SPA!のバカサイのネタで、
「こうしている間にも、イケメンはsexしている」
というのがあって、
膨大なヒマの経験がない限り、創作の世界には来ない。
(コスプレや衣装デザインやファッションの世界では、
ナルシズムから発生したイケメンがいることもある)
つまり、創作の源泉とは、負け組のヒマである。
中学生から大学生あたりに、
何らかのオリジナルストーリーを書き始める。
そのとき見られるのが、
男の書き手なのに、女主人公にしたがる傾向だ。
女主人公といっても、リア充や女の嫌な部分を持っているリアルな女ではなく、
「ボーイッシュな女」タイプだ。
明るく、幼なじみの男の頭をはたいたり、
化粧やオシャレはあまりせず(ガサツであることすらある)、
つまりは、「男女に分化する前の異性」である女である。
どんなに女であると設定したとしても、
男の書く女主人公には、
決して生理や、
女同士の意地悪な確執や、嫉妬や、表面上の連帯感や、
欲求不満がない。
女特有の精神的柔軟性(悪く言えば状況に流される性質)や、
地図を読めないに代表される客観的のなさ、
あーでもないこーでもないと買い物ひとつに3時間かける性質に
代表される、差異に興味があり構造に興味がない特質はない。
つまり、男の書く女主人公は、正確には女ではない。
我々が長じて第二次成長を迎える前の、女である確率が高い。
つまり、「概念としての女性」でしかない。
何故そのようなものが主人公になるのか。
それは、書き手である我々が、リア充でないからだ。
つまり、男として負け組であるからだ。
我々書き手は、リアルな世界で、
リアルに冒険したり、リアルに世界を変えた経験がない。
だから、男の主人公が、
どうやって冒険したり世界を変えていくかを書くことが出来ないのだ。
だから、女にしてしまう。
この女は、活発で、女的嫌な部分を持たない架空の女だ。
そして、「負け組の男」の成分も持っていない。
つまりは、「理想のリアルな男」を書けないからこそ、
女というファンタジーキャラにしているのだ。
そうかどうかを判定する方法がある。
自分の性格的欠点をあげてみよ。
その女主人公の欠点をあげてみよ。
それらが一致するか、または、女主人公に欠点がないなら、
それは、その女主人公が他人として存在していない、
ファンタジー的造型である証拠だ。
僕は大学生時代に映画サークルに入っていた。
サークル内でつくられる映画は、脚本コンペがある。
だから、同世代の書く脚本は山ほど読んだ。
関西の自主映画の上映会も、ぴあを見ながら、
足しげく通ったので、同世代の自主映画も沢山見た。
女主人公が自分の進路やアイデンティティーに悩む独白の、
それはそれは多いこと。
作者が男でありながら、自分の悩みを女主人公経由で言わせている。
それは、美しい女を撮れる、という現場的欲望とワンセットであるような。
大二病と名付けてもよい、女主人公病。
根本にあるのは、男としての負け組である。
しかし、負け組であるからこそ、創作するのだ。
この矛盾。
大二病を抜け出すには、自分がリア充になるしかない。
彼女をつくれ。友達をつくり、仲間と遊べ。
それでも尚創作をしたければ、
リア充たち、非リア充たちに向けた、何をつくるかを悩んでから、創作せよ。
単なる負け組であったときとは、何かが変わる筈である。
今でも、時々そういうタイプのものを見る時がある。
時々かつての自分を見るような目になるものだ。
さて、これが女作家だとどうだろう。
いわゆる腐女子は、男で言うところのこのカテゴリではないかと思っている。
何故ならそこに出てくる男たちは、
拳による決着や、チキンであるかどうかの不安や、
権力の序列に従うことや、どうしようもないリビドーや、
コンプレックスのため弱い者を殴ることで自分の強さを安心するような、
男特有の性質がないからだ。
ちん毛が落ちていてムカついたり、朝だちがなくて落ち込んだり、
道行く女に目がいったり(点数をつけて序列化したり)、
などの原始的な性質がないからだ。
そこに出てくる男は、男ではない。
僕が昔から少女漫画に馴染めないのは、
そこに出てくる男が男でないからだ。
(少年漫画に出てくる女が女でないのは、この際問わない)
昔、「一瞬の風になれ」という小説の映画化を打診されたことがあった。
女の書き手による、男子高校生の陸上部の話だ。
理想化されすぎていて、男としてのリアリティーが足りない、
と女プロデューサーに言ったら、
ファンタジーなんだからいいんだ、と反論されて閉口した。
ジャニーズたちが持っているファンタジーと同じものが嫌だと言ったのに、
ファンタジー素敵じゃない、と言われた。
つまりは、ファンタジーとしての男しか、そこにいない。
これは、男が女主人公を書きたがることと、対称性があると思う。
もっとも、女の作家は人間そのものを書くのに巧みだから、
男の言うほど単純に男女を分けていない。
男作家よりもっとうまく性と性格をばらけさせることができるものだ。
(西川美和の男ファンタジー論については既に書いた)
女の人生については、男である僕があまり言えることはない。
腐女子のみなさんも、マスの目にさらされる、
プロを目指すとはまた違うところにいるだろうし。
いずれにせよ、プロの書き手を目指すなら、
この病を自覚し、そこに安易に行かないようにすることは、
覚えていたほうがよい。
一度、同性の主人公で一本成長ものを書いてみて、
その病を克服するとよい。
キーになるのは、自分=主人公ではない、ということだ。
(これについても以前に書いた)
2014年02月18日
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