2014年02月16日

視覚情報と聴覚情報の違い

ある表現を、「見せる」のか、「聞かせる」のか、
映像表現では選ぶことが出来る。
どちらが妥当なのか、考えてから表現しているだろうか。
無意識にそれを選択しているのだとしたら、
それは表現の素人だ。
自分の中に技術的基準がない証拠だ。
我々は天才ではないから、技術的にこれらを分別しよう。


言語化された情報と非言語的な情報で、それらは異なる。
まずは、言語化された情報から。


言語化されている場合、
殆どは聴覚、すなわち、台詞やナレーションによって表現するのが常套だ。

だが、台詞は嘘をつく。
台詞とは、感情と表裏一体だ。
感情のない台詞は棒にすぎず、棒は物語には必要ない。
人は、「この情報が今後の生死を決める」情報でないかぎり、
言語化された棒説明を、漏らさず理解することはない。

つまり、台詞で言語化するときは、
「いかに感情と情報を重ね合わせるか」または
「感情と情報を離反させるか」が重要である。
感情を伴わない純粋情報は、それを聞くシチュエーションづくりのほうが肝要だ。
たとえば、「今日は雪」という情報にすら、
その発言者の感情が入る。
(ひゃっほう、なんだかウキウキ、仕事なのに、仕事休みたい、など)
感情のない情報など、映画のなかでは不要だ。

むしろ、情報は、感情で解釈されて記憶される。


また、情報の内容が図式的なものならば、
視覚情報と併用するのがよい。

地図を前に作戦を練ったり、
殺人容疑者の顔写真を前に話をしたり、
恋する乙女の妄想に相手が登場するのは、
言語化されたものを視覚で補っているのである。

なお、絵でわかるものを言葉で説明するのは、
下手の説明だ。
(ハリウッドの脚本の教科書には、駄目な例として、
「みろ!奴らは銃を持っている!」がある。
銃口をこちらに向けられているとき、そんな事は普通言わない。
見ればその危機は明らかだ)
絵と言葉がうまく調和して機能するのは、
別々の役割を果たしているときだ。


音声言語の欠点は、それを理解するまで実時間がかかることだ。
映画とは、あることを二時間かけて理解すること、
といってもよい。
逆にいえば、二時間以上理解にかかることは、
映画では表現出来ない。(数学とか)

説明させてくれ!今それを聞いている暇はない!
のやり取りは、映画ではよくある。
これはつまり、差し迫った面白い場面では、
「説明して理解するはやさ」よりも、「展開のはやさ」が勝ることを意味する。
聴覚情報による理解は、結構時間がかかる。
人の話をよく聞いて理解するだけの時間がかかる。

すなわち、説明や理解というものは、
映画のなかでは、腰を落ち着けたところでしか出来ないのだ。
(現実でもそうだ。ちょっと込み入った話は、
喫茶店で話したりするもので、立ち話レベルでは難しい)

逆にいえば、映画には、
腰を落ち着かせるところと、落ち着かないところがある。
これを緩急という。


言語化情報のうち、視覚によるものとは、
画面にうつる文字のことだ。
字幕、テレビ画面や新聞やメール画面の文字や書き置きなどだ。

これも音声言語同様、認識するには実時間がかかる。
映画字幕の場合、1秒に6文字読める、という経験則をもとに、
文字数や、うつす時間を決めている。

台詞が嘘をつくかわりに、
この文字情報は、真実である、というのが暗黙の了解だ。
画面に出てきたメールや手紙は、真実の告白を意味する。
画面に出てきた新聞の見出しやニュースは、そこで起きてることを伝える。
(タイムスリップした人が新聞の日付で時間を確認するのは、
文字情報は真実である、という暗黙の了解に基づいている。
逆に、ミスリードはこれを逆用することもある)


また、視覚による文字情報は、
うつる絵の情報を抽象的に圧縮することが出来る。

たとえば、「東京」という一枚の風景写真はない。
東京は複合都市であり、渋谷から新宿から浅草からスカイツリーやら、
様々な構成要素がある。これを一枚の写真で表現は出来ない。
ところが、東京タワーのある風景に、「東京」と字幕を入れてしまうと、
それは「東京」という抽象概念に変わってしまうのだ。
同様に、「日本」というワンカットは存在しないが、
東京や富士山の写真に「日本」と入れて、ここは日本であることを示すことが出来る。
(「太平洋沖、12:58PM」「金曜日」「春」「五年後」など、
時をあらわす概念もそうだ)

これは、音声言語には出来ないことである。
説明するときの図式やフリップや文字要素で説明することも、
この効果を使っている。

一般に、視覚文字のほうが、
音声言語より早く読めるが、
あまりに多いと読むのがめんどくさくなる。

従って、真実を示すごく短い文やキーワードは視覚文字で、
残りは感情を含んだ台詞で表現するのが、
最も効率のよい方法だ。
(CMのキャッチコピーは、これらを計算してつくられている。
客観的真実、主張したいオフィシャルなことは文字で示し、
感情を含む場合はナレーションにする。
「まるで、春の海。」と文字で出しておいて、「そこは春の海のようでした」と
柔らかくナレーションで読むことで複合効果を狙ったりもする)



非言語情報はどうだろう。

視覚が、圧倒的にはやい。
百聞は一見にしかずだ。
今どういう状況か、どんなに説明するよりも、
現場を見たほうがよい。

また、「経験のないこと」は、どんなに言葉だけを聞いても想像出来ない。
たとえば、津波があのようなものであることを、
我々は311前にはイメージ出来なかった。
それほど、視覚情報は、ものごとを見たまま認識するのに強力だ。
宇宙人目撃談は、○○に似ていた、としか表現することが出来ない。
視覚情報は、言語化するときは、言語的カテゴリにしか入れられない。
視覚情報を言語化することは出来るが、
言語情報を一意に視覚化することは不可能だ。
(これが小説が映画化困難なひとつの理由だ)
つまり、視覚情報と言語情報は、不可逆変換である。

絵や写真のなんとも言えないムード、
人の微妙な表情、
見たこともない世界などは、
言語化したとしても、その言葉だけからそれらを再現は出来ない。
(これが企画書が通りにくい原因だ)

アクションなど、視覚的情報を矢継ぎ早に繰り出すのは、
視覚の快感である。
また、絵には見る順番や方向性がある(水墨画の話参照)ので、
視線の誘導などの楽しさもある。

それを使って、ミスリードを仕込むこともできる。
画面端でなんか動いたのでそっちへ注目したら、
逆側から怪物が!なんてのは定番だ。

視覚は、強力な情報だからこそ、
逆にも使える。
「全貌を見せない(見せるのを遅らせる)」というテクニックだ。
そのことでヤキモキしたり、
期待が膨らんだり、
緊張を持続させたりすることが出来る。
あるいは、省略する、というのもひとつのテクニックになる。


次は非言語情報のうち、音について。
今回分量が多かったので、次回につづく。
posted by おおおかとしひこ at 02:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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