前項の続き。
非言語情報としての聴覚情報について、整理する。
聴覚情報は、視覚情報と併用出来る。
あるものを見ながらその説明を聞いたり、
あるものを見ながら別のことを聞いたり、
あるものが見えないときに聞こえることで判断したり、
同時平行と別のことに使える。
とくに、非言語的な音の情報は、ニュアンスを伝えるのに適している。
怪物の足音、殴った感触、爆発音、破裂音、地響き、
相手の声のトーン、台詞に挟まれる「えっと」というためらい、
ため息、嬌声、嗚咽、怒号や歓声やざわつきなどなど。
聴覚情報のうち、非言語情報は、
人の芝居、その場で出る音、
SE、音楽(BGM、ME、その場鳴っている音楽に分けられる)
に分けられる。
分けるのは、担当が違うからだ。
(それぞれ、俳優、その場の音を録音部が拾う、
効果、作曲と演奏に分けられる。これを丁度よい案配に調整するのが、
ダビングやミキシングやMAと呼ばれる作業だ)
とくに、後付けである、SEと音楽は、
映画にとっては、出来をかなり左右する重要なパートだ。
SE(効果音)は、
リアルな音と非リアルな音がある。
足音は普通リアルな音だが、
タラちゃんやドラえもんは、非リアルな足音を持っている。
とくに、非リアルな世界を描写するとき、
効果音はとても重要だ。
怪物の足音ひとつとっても、
質感や重量感や、どれくらいのスピードなのかを、
人は音から無意識に判断する。
火を吐いたり空を飛んでも、なるべくそれが「実在」するような音をつくって、
リアリティーを構築してゆく。
一方、リアルな世界にアニメ的なSEをつけて、
非リアルなリアルを持ち込むことができる。
変身するときや魔法をかけるときに、
キラキラ系のSEをつけたりすることは、よくある演出だ。
「いけちゃんとぼく」でのいけちゃんの質感をだすために、
イメージとしては、プリンやゼリーやおっぱいのような柔らかさを出したかった。
ビジュアル(CG)で表現しても、柔らかさまで到達しないので、
SEでそれを助けることを考えた。
しかし、プリンやゼリーやおっぱいには、固有のSEはない。
文字でいえば、もよんとか、むにゅんとか、ぽよんとか、
そんな音がよい。あまりにアニメ的な音はあるが、アニメにしかならない。
試行錯誤の結果、テルミンの音を合わせると、
アニメ的なことを示唆しながらリアル的な音でもあり、面白かった。
クレラップCMの「大人に変身」編では、
でんぐり返しすると木村カエラになる、
というトンデモシーンでの変身SEに、
天才効果師島崎早月は、一升瓶の栓を抜く、「ぽん」という低い音を持ってきた。
パンカパカパーンやキラキラやシャラランなど、
ベタなパターンはいくらでもあったのに。
煙が出ればしゅぼん系のSEはあり得るが、まさかでんぐり返しにぽん、とは。
効果音の効果について、組み合わせの妙を考えさせる。
これらのように、非リアルな音が、
逆にリアルになる例も沢山ある。
それは効果の仕事でもあるし、監督の発想でもある。
ためしに、映画を音を消して見てみるとよい。
そこにあるものの、実在感が、
絵だけだとかなり無くなる筈だ。
効果音は、音による実在感の表現で、絵を助けるのだ。
逆に、映画の音だけを聞いてみるとよい。
いかに世界をきちんと音だけで表現しているかが、分かると思う。
音楽が感情を増幅させることに、異論はないだろう。
音楽は、大きく分けて二種類ある。
ラジオやテレビやクラブなどの、
スピーカーから出ている設定の、その場の音楽と、
その場ではかかっていない、BGMとしての音楽だ。
映画が生まれたとき、サイレント映画は、BGMによって情感を獲得した。
時代が下ると、一時期ではあるが、勝手に音楽が鳴るのは不自然だとして、
ラジオやラジカセからしか音楽を流さないリアリティーが流行った。
(名残としては、朝起きてラジオをつけて流れた音楽が、
そのままBGMになり、クレジットシークエンスがはじまって、
オープニングになる演出は、よくみられる)
現代では、それらを組み合わせるのが一般的だ。
(ミュージカルで突然歌い出すのを不自然だ、
という人がいるように、突然BGMを流すのは不自然だ、という人もいる)
BGMには二種類あって、いわゆる音楽と、MEである。
MEとは、ごく短い音楽で、感情を刺激するもので、
とくに短いもので何回も使うのはジングルともいう。
コントの落ち、「♪ちゃんちゃん」は、ジングルだ。
(昔のテレビはこんな楽しいジングルだらけだったなあ。
これすらも生楽器で演奏していたが、シンセによるサンプリングで
何でも出来るようになってからは、意外と詰まらないジングルばかりになった)
「13日の金曜日」では、バイオリンの不協和音が恐怖のMEとして使われ、
以降のサスペンスものの定番になった。
幸せのとき、ぽわーんという音は、楽器で鳴らせばMEで、
モノの音だけでつくればSEだが、シンセの発達で、
両者の境界は曖昧になっている。
いいことがあったときの教会の鐘の音(カラーン、カラーン)は、
MEでもあるし、SEでもある。
MEは、さらに長い曲のときもある。
不安なときに通奏低音を流したりするのは定番だ。
音で表現するものには、二種類ある。
そこにあるものの音と、ないものの音だ。
あるものにつけるのは簡単だが、
ないものにつけるのは難しい。
例えば風魔では、ドン、というMEを多用した。
(和太鼓や銅鑼などをミックスしたオリジナル音)
車田演出を意識したものだが、
ザシャアやドオオオンやカッもやりたかったが、いまいちうまくいかなかった。
ドン、の演出は、歌舞伎や落語における太鼓のように、
場面転換や落ちにも使われ(ME的)、衝撃の大きさなどにも使われた(SE的)。
音による表現では、
さらにもうひとつある。
無音だ。
台詞と台詞の間の「間」、
「♪思い出はいつの日も…………雨」の「…」のタメ、
ざわついていた教室が、静かになってゆくとき、
好きな人に雑踏であったときの、周りの音が消えるとき、
風魔最終回での最後の一太刀のスローモーションの14秒間、
そして誰もいなくなったとき、
などなど、
「無音」という演出が存在することを知っておくのはよいことだ。
音は、視覚以上に原始的な感情に近いと思う。
(だから台詞には、感情の伴いが必要なのだ)
視覚と聴覚、映画にはふたつの表現がある。
これらを使い分け、自在に使いこなすことが、
映像表現に習熟するということだ。
先人たちの工夫を知ることは、とても勉強になる。
(それをまとめたものはないから、豆知識のように、
徐々に増やしていくしかないところが、しんどい)
こないだ話の中に出たので、書いておく。
天才演出家、舟山泰史先輩の最高傑作は、
「芸能人は歯が命」の「アパガード」だと思う。
とくに僕の絶賛するポイントは、
藤原紀香が「♪好き好き好きよ〜」と迫ったあとの、
諸星和巳が腰をふりながら「♪アパガード」と歌う瞬間に、
背中に背負ったロケットに花火がつき、「ゴー」と音がする瞬間だ。
キャスティングも素晴らしい。
素晴らしくアホである。そこまで突き抜ける発想は僕にはない。
2014年02月16日
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