2014年02月16日

視覚情報と聴覚情報の違い2

前項の続き。
非言語情報としての聴覚情報について、整理する。

聴覚情報は、視覚情報と併用出来る。
あるものを見ながらその説明を聞いたり、
あるものを見ながら別のことを聞いたり、
あるものが見えないときに聞こえることで判断したり、
同時平行と別のことに使える。

とくに、非言語的な音の情報は、ニュアンスを伝えるのに適している。
怪物の足音、殴った感触、爆発音、破裂音、地響き、
相手の声のトーン、台詞に挟まれる「えっと」というためらい、
ため息、嬌声、嗚咽、怒号や歓声やざわつきなどなど。

聴覚情報のうち、非言語情報は、
人の芝居、その場で出る音、
SE、音楽(BGM、ME、その場鳴っている音楽に分けられる)
に分けられる。
分けるのは、担当が違うからだ。
(それぞれ、俳優、その場の音を録音部が拾う、
効果、作曲と演奏に分けられる。これを丁度よい案配に調整するのが、
ダビングやミキシングやMAと呼ばれる作業だ)

とくに、後付けである、SEと音楽は、
映画にとっては、出来をかなり左右する重要なパートだ。

SE(効果音)は、
リアルな音と非リアルな音がある。
足音は普通リアルな音だが、
タラちゃんやドラえもんは、非リアルな足音を持っている。

とくに、非リアルな世界を描写するとき、
効果音はとても重要だ。
怪物の足音ひとつとっても、
質感や重量感や、どれくらいのスピードなのかを、
人は音から無意識に判断する。
火を吐いたり空を飛んでも、なるべくそれが「実在」するような音をつくって、
リアリティーを構築してゆく。

一方、リアルな世界にアニメ的なSEをつけて、
非リアルなリアルを持ち込むことができる。
変身するときや魔法をかけるときに、
キラキラ系のSEをつけたりすることは、よくある演出だ。

「いけちゃんとぼく」でのいけちゃんの質感をだすために、
イメージとしては、プリンやゼリーやおっぱいのような柔らかさを出したかった。
ビジュアル(CG)で表現しても、柔らかさまで到達しないので、
SEでそれを助けることを考えた。
しかし、プリンやゼリーやおっぱいには、固有のSEはない。
文字でいえば、もよんとか、むにゅんとか、ぽよんとか、
そんな音がよい。あまりにアニメ的な音はあるが、アニメにしかならない。
試行錯誤の結果、テルミンの音を合わせると、
アニメ的なことを示唆しながらリアル的な音でもあり、面白かった。

クレラップCMの「大人に変身」編では、
でんぐり返しすると木村カエラになる、
というトンデモシーンでの変身SEに、
天才効果師島崎早月は、一升瓶の栓を抜く、「ぽん」という低い音を持ってきた。
パンカパカパーンやキラキラやシャラランなど、
ベタなパターンはいくらでもあったのに。
煙が出ればしゅぼん系のSEはあり得るが、まさかでんぐり返しにぽん、とは。
効果音の効果について、組み合わせの妙を考えさせる。

これらのように、非リアルな音が、
逆にリアルになる例も沢山ある。
それは効果の仕事でもあるし、監督の発想でもある。

ためしに、映画を音を消して見てみるとよい。
そこにあるものの、実在感が、
絵だけだとかなり無くなる筈だ。
効果音は、音による実在感の表現で、絵を助けるのだ。
逆に、映画の音だけを聞いてみるとよい。
いかに世界をきちんと音だけで表現しているかが、分かると思う。


音楽が感情を増幅させることに、異論はないだろう。
音楽は、大きく分けて二種類ある。
ラジオやテレビやクラブなどの、
スピーカーから出ている設定の、その場の音楽と、
その場ではかかっていない、BGMとしての音楽だ。

映画が生まれたとき、サイレント映画は、BGMによって情感を獲得した。
時代が下ると、一時期ではあるが、勝手に音楽が鳴るのは不自然だとして、
ラジオやラジカセからしか音楽を流さないリアリティーが流行った。
(名残としては、朝起きてラジオをつけて流れた音楽が、
そのままBGMになり、クレジットシークエンスがはじまって、
オープニングになる演出は、よくみられる)
現代では、それらを組み合わせるのが一般的だ。
(ミュージカルで突然歌い出すのを不自然だ、
という人がいるように、突然BGMを流すのは不自然だ、という人もいる)

BGMには二種類あって、いわゆる音楽と、MEである。
MEとは、ごく短い音楽で、感情を刺激するもので、
とくに短いもので何回も使うのはジングルともいう。
コントの落ち、「♪ちゃんちゃん」は、ジングルだ。
(昔のテレビはこんな楽しいジングルだらけだったなあ。
これすらも生楽器で演奏していたが、シンセによるサンプリングで
何でも出来るようになってからは、意外と詰まらないジングルばかりになった)
「13日の金曜日」では、バイオリンの不協和音が恐怖のMEとして使われ、
以降のサスペンスものの定番になった。
幸せのとき、ぽわーんという音は、楽器で鳴らせばMEで、
モノの音だけでつくればSEだが、シンセの発達で、
両者の境界は曖昧になっている。
いいことがあったときの教会の鐘の音(カラーン、カラーン)は、
MEでもあるし、SEでもある。
MEは、さらに長い曲のときもある。
不安なときに通奏低音を流したりするのは定番だ。


音で表現するものには、二種類ある。
そこにあるものの音と、ないものの音だ。
あるものにつけるのは簡単だが、
ないものにつけるのは難しい。

例えば風魔では、ドン、というMEを多用した。
(和太鼓や銅鑼などをミックスしたオリジナル音)
車田演出を意識したものだが、
ザシャアやドオオオンやカッもやりたかったが、いまいちうまくいかなかった。
ドン、の演出は、歌舞伎や落語における太鼓のように、
場面転換や落ちにも使われ(ME的)、衝撃の大きさなどにも使われた(SE的)。


音による表現では、
さらにもうひとつある。
無音だ。

台詞と台詞の間の「間」、
「♪思い出はいつの日も…………雨」の「…」のタメ、
ざわついていた教室が、静かになってゆくとき、
好きな人に雑踏であったときの、周りの音が消えるとき、
風魔最終回での最後の一太刀のスローモーションの14秒間、
そして誰もいなくなったとき、
などなど、
「無音」という演出が存在することを知っておくのはよいことだ。


音は、視覚以上に原始的な感情に近いと思う。
(だから台詞には、感情の伴いが必要なのだ)


視覚と聴覚、映画にはふたつの表現がある。
これらを使い分け、自在に使いこなすことが、
映像表現に習熟するということだ。
先人たちの工夫を知ることは、とても勉強になる。
(それをまとめたものはないから、豆知識のように、
徐々に増やしていくしかないところが、しんどい)



こないだ話の中に出たので、書いておく。
天才演出家、舟山泰史先輩の最高傑作は、
「芸能人は歯が命」の「アパガード」だと思う。
とくに僕の絶賛するポイントは、
藤原紀香が「♪好き好き好きよ〜」と迫ったあとの、
諸星和巳が腰をふりながら「♪アパガード」と歌う瞬間に、
背中に背負ったロケットに花火がつき、「ゴー」と音がする瞬間だ。
キャスティングも素晴らしい。
素晴らしくアホである。そこまで突き抜ける発想は僕にはない。
posted by おおおかとしひこ at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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