頭でっかちとは、最近の業界用語だ。
表現の最終責任者は監督だが、
そこより上の立場の人が、異常に多いことをいう現象だ。
昔からやっているCMを例にとろう。
監督を雇うのはプロデューサーである。
プロデューサーを雇うのは広告代理店だ。
広告代理店には、企画を考えるプランナーがいて、
この人がキーマンである。
広告代理店には、クリエーティブ部門がいて、
CMだけでなくポスターやその他の表現をまとめる、
クリエーティブディレクター(CD)がいる。
プランナーの他にコピーライターが言葉の責任者として随伴することもある。
ポスターとCMを連動させるとき、ポスターの責任者の
アートディレクターが随伴することもある。
代理店クリエーティブ部門ですでに4人。
お金を担当するCPがつくこともある。
キャスティング会社が入り、タレントとの契約担当もいる。
(大物タレントの場合、担当マネージャーは数名になる)
代理店には、クライアントとの第一次接点である営業がいる。
大きなクライアントの場合、二名から三名だ。営業部長が出ることもある。
この先がようやくクライアントだ。
たいてい宣伝部の担当がいて、それは複数名いる。
その上に宣伝部長がいる。
宣伝部は商品開発部と別部署であるが、開発部は開発した者として、
宣伝の方針に意見を言う権利がある。
宣伝担当の複数名は、それらの意見調整に奔走する。
開発部だけでなく、流通担当(この商品はコンビニに強いなど)、
販売店担当(消費者との接点を別会社にしている企業が多い。
たとえば、保険のおばちゃんは保険会社の人ではないし、
車の販売店は、車製造会社の人ではない)が加わることもある。
長い商品にはブランドマネージャーなる人がいて、
広告表現がこれまでのブランド感を外さないように意見する。
この上には役員クラスがいる。広告は、彼らのなわばりや権力闘争の場になることもある。
誰の意見を慮り、誰の意見を尊重するかだ。
(日本人的決着の典型は、玉虫色の決着だ)
そしてその上に、社長がいる。
これが大体東京のCMでの、監督の上にいる人達だ。
これらの人全員が、15秒の中のことについて、意見する権利がある。
容易に想像出来るように、
たったひとつの表現にすぐ落ち着く訳がない。
いくつもパターンを撮影し、組み合わせを提案し、
ときに後付けで合成しない限り、なかなかひとつの完成形にたどり着くことはない。
社長と監督の間には、仕事にもよるが、7層前後のレイヤーがいる。
これらの間のどこかが意見をしたとしても、
下の層が次に伝達し、伝言リレーを経て監督のもとにやってくる。
監督がその解決策を出して、上の層と話し合えるのは幸せな仕事だ。
大抵、指示としてしかやってこず、監督がそれ以上によい解決策を持っていたとしても、
上の層にはその議論がつたわらない。
監督がそのクリエーティブな解決策を見いだしたとしても、
その頃には上の層では別の意見が生まれている。
そしてそれが時間差で伝わる。
これが、現場のダッチロールの原因だ。
現場から見れば朝令暮改であり、日々状況がかわり、
何をしてよいかわからなくなってゆくのは、
7層もの意見を一度に集約する手段がないからだ。
(昔なら、会って話していたものが、
今ではメールで一方的に送りつけることになっている)
サントリーという名広告を連打する会社では、
会社内の担当が全てひとつの会議に出席し、
そこに代理店も監督も同席し、一度の会議で重要なことを決めていた。
(それが変わったという話はだいぶ前に聞いた)
そうでもしない限り、「ひとつの狙い」に一生なることはないだろう。
さらに、この集団が、監督より才能があるわけではない、
という事実を、あまり気づいていない。
(勿論、監督がバカな現場もある)
ぼんくらの出す解決策より、才能ある人の解決策のほうが、
よほどエレガントなのだが、
それは間の層のぼんくらのせいで、上に伝達されないのだ。
司馬遼太郎は、大日本帝国が何故負けたのかを、
生涯のテーマとし、いつか太平洋戦争を書くことをライフワークとしようとしていた。
だが、それは書かれることはなかった。
調べれば調べるほど、人間の馬鹿さ加減が分かってきたからだ、
と伝えられる。
おそらくだが、末期の帝国陸軍や海軍は、
このような頭でっかちのダッチロールを繰り返していたのではないかと想像する。
軍隊にたとえれば僕は現場の指揮官である。
指揮官への指示が、頭でっかちで朝令暮改なのだ。
これは、多分今どこの日本企業でも起こっている問題だと想像される。
現場と会議室が遠い。会議室にいる人間が現場より多い。
会議室がひとつでなく複数あり、それらがいがみあっていて、
現場を見ていない。
例えば本田宗一郎が会社を起こしたときは、
そうではなかっただろう。
つくる人が経営するから、つくる現場が一番だったはずだ。
つくる現場を中心にしていたものが、
いつ会議室中心になってしまったのか、
それは専門家に任せるとして、
事件は現場でなく、会議室で起きている。
(「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きてるんだ!」
は、君塚良一の、ベストの台詞だと思う。脚本家としての彼はあまり好きではないが、
この台詞だけは生涯尊敬すると思う。「踊る大捜査線」で組織論を痛快に否定したのに、
現実の日本では、そこまで変わらなかった、という事実はせつない)
解決法はいくつかある。
・全員会議を必ずやる(サントリーのように)。
会って話し、その場で問題を解決するように知恵を集める。
・上から下まで、同じくらいの才能と能力を集める。
(間に癌がいるかどうかを知る方法はない。
あるとしたら、全員会議をしたときに、たいして発言しないやつを知ることだ)
・上の者が、下の者の仕事を全て経験しているからこそ、
指示を出せるし尊敬も評価も出来る。
(かつての徒弟制はこうだった。現場の叩き上げが上までのぼった。
今は別会社、アウトソーシングがそれを阻んでいる。
恐らく次に来るのは移民と、外人管理事務所だろう)
つまり、組織に人が多すぎるのだろう。
CM業界ほどではないが、
映画会社も似たようなものだ。
映画をつくるには、資金を集めたり、
宣伝をうまく行かせねばならない。
銀行や、企業の投資部門の集合体(製作委員会)、
宣伝を大量にやってくれるテレビ局、間に入る広告代理店、
数字を持っている人と、その周囲の人々、
それらの複合体、間の接着剤と調整役にまわるプロデューサーが、
監督の上にいる。
すなわち、頭でっかちの構造だ。
理想を言えば、
金を持った理解あるスポンサーが一人、監督が一人、
であろう。中世の芸術のあり方だ。
勢いのあった頃のテレビでは、
一社提供、局P局D局内製作が常識だった。
勢いのあった頃の映画では、
自社製作、自社撮影所、自社美術、自社俳優、自社監督だった。
たぶん、今の組織より、もっと人が少なくて、
もっと額に汗していたのだ。
そのコストを最少に縮小して、中世のような芸能をやろうとしているのが、
キンドルなどの電子出版であろう。
小説ならそれも可能だろうが、映像ではそうもいかないのが残念だ。
頭でっかちのダッチロールは、結局墜落する。
うまくいっても不時着や、機体にダメージを受けて、
その機は廃棄だろう。
小さくて有能な機を次々に出撃させ、それらが編隊を組むようなやり方が、
生還率も成功率も高いのではないだろうか。
ということで、そのような仕事の仕方が出来ないか、
と身辺を模索しようと、個人的に考えてはいる。
2014年02月19日
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