山場をひととおり終えると、
弛緩という退屈がやって来る。
一通り、関わる人たちを描ききれば描ききるほど、
作者も何を書いていいかわからなくなる。
そんなときは、「外部」を使うとよい。
内輪で煮詰まったら、新しい血を入れるのはセオリーだ。
いきなり新人を登場させるのに無理があるなら、
外部からのニュースがやりやすい。
これまで関係していない、外部からの新しい情報がもたらされることが、
次への展開をうながすのだ。
(展開とは新しい事実のこと、という予想はすでに書いた)
全くの外部でもよく、
(アメリカ情報、転校生、マスコミのニュース、隣町、大阪では、など)
内輪だが外部、でもよい。
(今までクラスで目立たなかった奴が実は、隣のクラスでは、
よく知っていたはずの身内に新たな秘密が、友達の親戚、など)
これによって、「世界が広がる」という展開になる。
今まで内輪だけで進んできた物語が、
更に多くの人に共有される問題となってゆく。
スピルバーグは、ストーリーテリングのコツとして、
マスコミを出さない、というルールを自分に課しているという。
登場人物と観客の親密な関係に、無粋なマスコミを介入させたくないのだそうだ。
E.T.などを見ればその主張はよくわかる。
あれが報道されてしまったら、エリオットとE.T.の友情が秘密のものでなくなる。
そのかわり、彼らの関係は、母親、いじめっこたち、軍に知られるように話が拡大してゆく。
話の「外部」をどこに設定するかが、
ストーリーテラーの腕のみせどころだ。
スピルバーグは、マスコミをぎりぎり境界線にして、
その中の世界を語る人、というタイプのストーリーテラーだ。
マスコミを巻き込んでの大騒動は、
映画の規模としては、なかなか大きなものになる。
その規模で世界を描いてもよいし、
人知れずある冒険を描いてもよい。
外部からのニュースを扱う場合、
その「外」とはどこかを、いつも意識しておこう。
自分の書いている物語は、どの規模なのかを、意識しよう。
シャマランの「ヴィレッジ」は、村の世界をマスコミにばらさないようにする物語だった。
(つまり村の外が、外)
「E.T.」は町と軍の秘密の話だ。
(それ以外の一般の人々が外で、宇宙人は知らされない)
「風魔の小次郎」は、ふたつの学校とふたつの忍の一族の話に、
聖剣が二振り関わってくる話だ。
(限定空間ものに、遥かに時間スケールの違うものが投入される)
「ロッキー」はフィラデルフィアという小さな町と、ボクシングヘビー級界の話だ。
(どんなにアメリカンドリームだとしても、実はボクシング界以外は世界の外)
世界を俯瞰しながら、主人公という点と線を書いていこう。
2014年02月21日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック