この真実でない俗説を、身にしみて理解しておくとよい。
どんなに成功した作品をつくっても、
主演ほか、キャストの功績と評価される。
それは、よく出来た映画やドラマは、
主人公にほんとうに感情移入するからだ。
これが真実ではないことは、
そのキャストが主演する別の作品が、
同じ程度面白くないことがあることから、明らかだ。
にも関わらず、人はキャストを成功要因にしたてあげる。
本当は作品の成功なのに。
脚本監督をはじめとするスタッフは、キャストより多いのに。
(エンドロールを数えて見たまえ。一本の作品に関わる人は、
100人は普通だ)
全てのチームワークが上手くいくからこそ、
作品が成功するのに。
それは、「見える人」がキャストだけだからだ。
だから素人は、作品がいいとき、
それはキャストに集中して感情移入した結果だと気づいていない。
感情移入に集中してストーリーと同化するぐらい楽しんだことに気づいていない。
(そして、ストーリーの記憶は、場面でしか残らないことは、
動き論で書いた)
だから、素人なりに分析して、キャストの演技すごい、
という見当違いの結論に至るのだ。
まあ素人がそのような論評をするのは構わない。
問題は、プロであるべき我々までがそう誤解してしまうことだ。
言葉を誤解承知で使うなら、
キャストは人形である。
人形は、人形遣いがいてはじめて生命を持つ。
人形遣いがいても、演目がないと、ショウにならない。
演目、人形遣い、人形が揃って、はじめてショウである。
勿論キャストは知性も感性も能力も人格もある人間である。
しかも能力の高い人形ほど、さまざまなチューニングが可能で、
独自の考えや感性を持っている。
だからこそ、それをひとつにチューニングする人形遣いが必要なのだ。
オーケストラに例えれば、
どんなに有能な弾き手と楽器を個々に用意しても、
指揮者がいないと曲にならないという。
有能な人形たちを作品に対してチューニングし、
集団として機能するように編成し、
まとめあげる人形遣いこそ指揮者に相当する。
人形遣いのいない、
キャストだけのエチュード(アドリブ)が作品になるか、
試してみれば明らかだ。
もし彼らが脚本を書くだけの能力を持っていたとしても、
それは決して物語にはならない。
一瞬だけは、ヴィヴィッドな交錯をつくることは出来るが、
それが物語的うねりを生じ、焦点とターニングポイントをもち、
内的動機や外的動機やコンフリクトをもち、
メインプロットとサブプロットをもち、テーマを持ち、
三幕構造を持ち、山場を15分おきに持ち、ラストシーンでテーマが定着する確率は、
かき混ぜたプールに入れた時計の部品が、偶然時計に組上がる確率と等しい。
脚本の存在だけではない。
人形遣いという、物語と観客の間に存在する人の力量が、
作品の出来を左右する。
人形遣いは、作品を、ひとつの視点から見るのが仕事だ。
何が主で何が副か、どの角度から物語を見るのが一番面白くなるのか、
ぶれない指針を持っている。
だから人形のあれこれを修正する権利をもつ。
一拍おくことや強調や逆に抑えることや、台詞の解釈を議論する権利をもつ。
この人の考え方で作品を見る、という提供のしかたをされるからこそ、
観客は没入できる。
没入出来るようにディテールを整えてあるからだ。
そのために、OKとNGの基準があり、それを決める権利を唯一持つのだ。
役者のアドリブだけで構成された、いくつかの失敗映画をみるとよい。
いかに指揮者のない映画が、物語の面白さを持たないかを、味わうとよい。
代表的なのは、「好きだ、」「七夜待」あたりであろうか。
宮崎あおいや西島秀俊なる実力者をもってしても、
価値のある物語は生まれないのだ。
(宮崎あおいがカワイイ瞬間は生まれている。
しかしこれは、猫をビデオで撮っていて偶然カワイイしぐさをしたことと同義だ)
歌舞伎は昔から、
一枚目(主役)、二枚目(主役に劣るがオイシイ役)、
三枚目(滑稽なコメディリリーフ)、
の三枚看板で興行をしてきた。
だから日本の興行は、キャストで行うのが、伝統と言えば伝統だ。
芸能人=セレブとして、滅多に会えないレア感を高めるのも、
興行の価値を上げる言説だ。
美男美女の頂点であることが希少種に拍車をかける。
が、キャストと親しくなればなるほど、
彼らは有能な楽器であり、有能な弾き手であることがわかる。
彼らにとって必要なのは、指揮者と演目だ。
アドリブで何かをしたいわけではない。
アドリブで何かをやるのは芸人やアナウンサーであり、
役者とは違うジャンルの生き物だ。
(昨今の芸能界は、ブログやバラエティーで、混在させるのが常套だが)
僕のつくる作品は、とくにキャストが輝いてみえる作品が多いように思う。
だからみんな勘違いするようだ。
そのキャストが素晴らしいんだ、って。
数あるCMも、風魔もいけちゃんも、キャストが素晴らしいと、
みんな思ってしまう。(僕がうまい、とは思わないようだ)
僕は、風魔の舞台版の出来は悪いと思う。
同じキャストでやったにも関わらずだ。
僕は舞台版には一切関わっていないし、他の監督が来るからと、
頼まれもしなかった。(クレジットの名前貸しはした)
だから舞台版は、純粋に同キャストで違う人形遣いの作品だ。
(同演目ではない、と思うが、演目すなわち脚本を書き直すのも、
監督の権利である)
作品的な出来の悪さが、再演に結びつかなかったかどうかまでは、
興行の話なのでノータッチだ。邪推もやめておこう。
もしキャストだけで作品が成立するなら、ドラマと同じぐらい面白かった筈だ。
そうならなかったのは、誰の不在か。
(ファンは、分かっている人もいるだろうけど)
逆に作品の出来が悪いのは、監督のせいにされてしまう。
予算やスケジュールや政治の存在は表沙汰にされず、
プロデューサーの責任であっても監督のせいにされてしまう。
そのほうが、プロデューサーが監督を切りやすいからだ。
まあ、監督というのはそのような商売だ。
(サッカー日本代表の監督も、同じ立場である。
監督には、敗戦処理の依頼と、勝ちにいく依頼と、
何だか分からないがやってみよう、の依頼とがある。
作品的に大成功するのは、最後のパターンだけである)
もし登場人物が物凄く輝いている、とても良い作品があったら、
それは、興行、演目、人形遣い、人形のすべてが噛み合った奇跡である。
キャストで追っかけることが世間の流行だが、
その他の人で追っかけてみると、何かが分かるかも知れない。
(映画は監督で追いかけるのは、映画好きには常識だけどね)
ちなみに僕の代表作CM、クレラップは、
オカッパ頭のクルリちゃんの立ち上げからやっておりました。
2012「ゆうやけ」編を最後に、シリーズを若手に譲っています。
キャストが同じなのに、なんだか違うのは、人形遣いが変わったからです。
2014年02月22日
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