2014年02月22日

「成功はキャストの功績、失敗は監督の責任」という俗説

この真実でない俗説を、身にしみて理解しておくとよい。
どんなに成功した作品をつくっても、
主演ほか、キャストの功績と評価される。
それは、よく出来た映画やドラマは、
主人公にほんとうに感情移入するからだ。


これが真実ではないことは、
そのキャストが主演する別の作品が、
同じ程度面白くないことがあることから、明らかだ。

にも関わらず、人はキャストを成功要因にしたてあげる。
本当は作品の成功なのに。
脚本監督をはじめとするスタッフは、キャストより多いのに。
(エンドロールを数えて見たまえ。一本の作品に関わる人は、
100人は普通だ)
全てのチームワークが上手くいくからこそ、
作品が成功するのに。

それは、「見える人」がキャストだけだからだ。

だから素人は、作品がいいとき、
それはキャストに集中して感情移入した結果だと気づいていない。
感情移入に集中してストーリーと同化するぐらい楽しんだことに気づいていない。
(そして、ストーリーの記憶は、場面でしか残らないことは、
動き論で書いた)
だから、素人なりに分析して、キャストの演技すごい、
という見当違いの結論に至るのだ。

まあ素人がそのような論評をするのは構わない。
問題は、プロであるべき我々までがそう誤解してしまうことだ。


言葉を誤解承知で使うなら、
キャストは人形である。
人形は、人形遣いがいてはじめて生命を持つ。
人形遣いがいても、演目がないと、ショウにならない。
演目、人形遣い、人形が揃って、はじめてショウである。

勿論キャストは知性も感性も能力も人格もある人間である。
しかも能力の高い人形ほど、さまざまなチューニングが可能で、
独自の考えや感性を持っている。
だからこそ、それをひとつにチューニングする人形遣いが必要なのだ。
オーケストラに例えれば、
どんなに有能な弾き手と楽器を個々に用意しても、
指揮者がいないと曲にならないという。
有能な人形たちを作品に対してチューニングし、
集団として機能するように編成し、
まとめあげる人形遣いこそ指揮者に相当する。

人形遣いのいない、
キャストだけのエチュード(アドリブ)が作品になるか、
試してみれば明らかだ。
もし彼らが脚本を書くだけの能力を持っていたとしても、
それは決して物語にはならない。
一瞬だけは、ヴィヴィッドな交錯をつくることは出来るが、
それが物語的うねりを生じ、焦点とターニングポイントをもち、
内的動機や外的動機やコンフリクトをもち、
メインプロットとサブプロットをもち、テーマを持ち、
三幕構造を持ち、山場を15分おきに持ち、ラストシーンでテーマが定着する確率は、
かき混ぜたプールに入れた時計の部品が、偶然時計に組上がる確率と等しい。

脚本の存在だけではない。
人形遣いという、物語と観客の間に存在する人の力量が、
作品の出来を左右する。

人形遣いは、作品を、ひとつの視点から見るのが仕事だ。
何が主で何が副か、どの角度から物語を見るのが一番面白くなるのか、
ぶれない指針を持っている。
だから人形のあれこれを修正する権利をもつ。

一拍おくことや強調や逆に抑えることや、台詞の解釈を議論する権利をもつ。
この人の考え方で作品を見る、という提供のしかたをされるからこそ、
観客は没入できる。
没入出来るようにディテールを整えてあるからだ。
そのために、OKとNGの基準があり、それを決める権利を唯一持つのだ。

役者のアドリブだけで構成された、いくつかの失敗映画をみるとよい。
いかに指揮者のない映画が、物語の面白さを持たないかを、味わうとよい。
代表的なのは、「好きだ、」「七夜待」あたりであろうか。
宮崎あおいや西島秀俊なる実力者をもってしても、
価値のある物語は生まれないのだ。
(宮崎あおいがカワイイ瞬間は生まれている。
しかしこれは、猫をビデオで撮っていて偶然カワイイしぐさをしたことと同義だ)


歌舞伎は昔から、
一枚目(主役)、二枚目(主役に劣るがオイシイ役)、
三枚目(滑稽なコメディリリーフ)、
の三枚看板で興行をしてきた。
だから日本の興行は、キャストで行うのが、伝統と言えば伝統だ。
芸能人=セレブとして、滅多に会えないレア感を高めるのも、
興行の価値を上げる言説だ。
美男美女の頂点であることが希少種に拍車をかける。
が、キャストと親しくなればなるほど、
彼らは有能な楽器であり、有能な弾き手であることがわかる。
彼らにとって必要なのは、指揮者と演目だ。
アドリブで何かをしたいわけではない。
アドリブで何かをやるのは芸人やアナウンサーであり、
役者とは違うジャンルの生き物だ。
(昨今の芸能界は、ブログやバラエティーで、混在させるのが常套だが)


僕のつくる作品は、とくにキャストが輝いてみえる作品が多いように思う。
だからみんな勘違いするようだ。
そのキャストが素晴らしいんだ、って。
数あるCMも、風魔もいけちゃんも、キャストが素晴らしいと、
みんな思ってしまう。(僕がうまい、とは思わないようだ)

僕は、風魔の舞台版の出来は悪いと思う。
同じキャストでやったにも関わらずだ。
僕は舞台版には一切関わっていないし、他の監督が来るからと、
頼まれもしなかった。(クレジットの名前貸しはした)
だから舞台版は、純粋に同キャストで違う人形遣いの作品だ。
(同演目ではない、と思うが、演目すなわち脚本を書き直すのも、
監督の権利である)
作品的な出来の悪さが、再演に結びつかなかったかどうかまでは、
興行の話なのでノータッチだ。邪推もやめておこう。
もしキャストだけで作品が成立するなら、ドラマと同じぐらい面白かった筈だ。
そうならなかったのは、誰の不在か。
(ファンは、分かっている人もいるだろうけど)


逆に作品の出来が悪いのは、監督のせいにされてしまう。
予算やスケジュールや政治の存在は表沙汰にされず、
プロデューサーの責任であっても監督のせいにされてしまう。
そのほうが、プロデューサーが監督を切りやすいからだ。
まあ、監督というのはそのような商売だ。
(サッカー日本代表の監督も、同じ立場である。
監督には、敗戦処理の依頼と、勝ちにいく依頼と、
何だか分からないがやってみよう、の依頼とがある。
作品的に大成功するのは、最後のパターンだけである)



もし登場人物が物凄く輝いている、とても良い作品があったら、
それは、興行、演目、人形遣い、人形のすべてが噛み合った奇跡である。
キャストで追っかけることが世間の流行だが、
その他の人で追っかけてみると、何かが分かるかも知れない。
(映画は監督で追いかけるのは、映画好きには常識だけどね)

ちなみに僕の代表作CM、クレラップは、
オカッパ頭のクルリちゃんの立ち上げからやっておりました。
2012「ゆうやけ」編を最後に、シリーズを若手に譲っています。
キャストが同じなのに、なんだか違うのは、人形遣いが変わったからです。
posted by おおおかとしひこ at 15:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック