2014年02月24日

役者の能力と物語の関係

タイムマシンがあるのなら、ずっとその瞬間に行ってみたい、
解きたい謎の瞬間がある。

それは、フランスの名女優サラ・ベルナール(1844-1923)の、
レストランでメニューを読み上げただけで、
居合わせた客全員を泣かせたという実話だ。

僕はこれをはじめて聞いた大学時代から、
「どうやったのか?」について長年考えている。
号泣させるのは物語の力であり、
読み方という単なるトーンではない、と信じているからだ。

日本語で言えば、
「菜の花のおひたし580円、寒ブリの刺身800円、牛串焼き980円…」
と読むだけで客が全員号泣するわけだ。そんな馬鹿な。
どんな読み方をすればそうなるというのか。


この逸話は、彼女の表現力のすごさとして伝えられている。
どんなどうでもいい原稿を読んだとしても、泣けるものに変わる、魔法の芝居なのだと。
これまで考えてきた、いくつかの仮説を出してみよう。


僕の仮説その1。物語の力を借りる。

たとえば読む前に、一言の前置きをつけくわえる。
「子供の頃から貧乏で苦労していました。
幼い頃に病気で姉を亡くしました。
彼女はいつかお腹いっぱいごちそうを食べることを夢見たまま、天国へといきました。
私がこれから読み上げるものは、彼女に食べさせてあげたいものです」
などを前口上にすれば、
食べものの名前(と値段)の羅列は、一種のストーリーを紡ぎ出す。

前口上があったかどうかについては、記録もない伝説であるから、
これについてはよくわからない。
一応、これなら泣かせることは可能かも知れない。
ただ、メニューが多かった場合、
間にちょいちょいストーリーの断片を挟んだ方がいいかも知れない。


仮説その2。生の芝居で感激した。

どれくらいの広さのレストランで、どれくらいの客層で、
どれくらいのクラスの女優か、僕にはわからないが、
たとえば、彼女が神格化されているような閉鎖空間なら、
滅多に見れない彼女の肉声芝居を見ただけで、感激した客が涙を流すことはありえる。
が、全員、というほど客は無邪気だろうか。
1900年前後の、牧歌的な社会なら、ありえたか。


仮説その3。歌であった。

フランス語は、しゃべるだけで詩であり、歌である。
即興で、節回し的な音韻を加えて、より歌的に読んだのではないか。
フランス語にそこまでの力があるか、ネイティブスピーカーではないから、
なんとも言いようがない。

しゃべるだけでお笑いに聞こえる大阪弁をネイティブとする僕からすると、
大阪の居酒屋のメニューをオモシロおかしく読み上げて、笑いをとる、
のは出来そうな気がする。
(ためしにやってみよう。ボケとツッコミの二人組がよさそうだ。
ボケは松本ツッコミは浜田あたりを想像されたい。
「菜の花の…(百人一首を詠むように)」「ほう、菜の花の」
「おひたし、580円」「おう俳句になっとるやんけ」
「菜の花の」「また菜の花」
「菜の花の菜の菜の花の」「なんやねんそれ」
「寒ブリの寒寒寒か寒ブリの」「ラップか!」
「刺身800円ヘイブロ」「おまえ実はラップ馬鹿にしてるやろ!」
「(素に戻り)牛串焼き、これめっちゃうまい980円」「なんか情報挟んできたでー!」
「牛串焼き、浜田の耳の裏めっちゃくさい980円」
「いらん情報挟むな!(しばく)」
とりあえず暖気ぐらいは出来たか。
更にネタを重ねていって、
「…を下さい」「注文してたんかい!」
などのオチで落とせそうな気がする)


とすると、フランス語は詩の力で泣かせたのだろうか。

素晴らしい歌は、それだけで人を泣かせることが出来る。
彼女は舞台女優であり、「銀の鈴の音」と形容される歌声をもっていたという。
とすれば、この線が固いような気もする。
だが、その歌詞がレストランのメニュー、というので可能だろうか。
(「探偵!ナイトスクープ」に投稿してみたいものだ。大阪弁ものになりそうだが)

脚本家として、
「メニューを読み上げるセリフ」だけで感動する脚本を書くことは、不可能だろう。
文脈の力をかりればあるいは、と考えた最初の仮説はこの予測をもとにしている。


ヒントになるのは、ジェリー・ブラッカイマーのやり方だ。
「アルマゲドン」の予告編で、僕は実は号泣した。
ドラマティックなシチュエーションと、エアロスミスの歌声が絶妙にマッチして、
(3/4のほらさんの指摘で、エアロスミスに訂正)
僕の中に想像がぶわっと広がり、その感情に号泣したのだ。
ちなみに、本編ではそうでもなかった。

この作品以降、
「なんだかおおげさな場面や何かを感じさせる場面に、
大音量で感動系の音楽を流せば、人は泣く」というパターンが出来た。
「泣ける映画」の流行だ。
それはつまり、ある音の組み合わせで、人の琴線は崩れるのだ、という経験則だ。

今でもこれは安易な演出のドラマに使われる。
「ルーキーズ」などはその典型だ。またこれか、のパターンで飽きた人もいるだろう。
そんなインスタントな感動はいらない、と。


サラ・ベルナールは、この「泣ける音楽」に似た周波数の歌声を持っていたのではないか。
だから、歌詞がなんであっても、それを聞けば泣いてしまうような、
(間の取り方や強弱などの歌い方は、ひょっとすると上手いかも知れない)
そんな歌のような詩のようなものではなかったか。

今のところの仮説は、そのあたりだ。
それは、「レ・ミゼラブル」を見ても確信できる。
歌の力は、歌詞にほとんど関係なく、それだけで人の感情を揺さぶる力がある。



が、それは、「数分の歌」ぶんの感動であり、
我々がなしえようとする、二時間の物語の末の感動とは、
また別ものであることに注意されたい。

そんなインスタントな、と我々がルーキーズに思うことは直感的に正しい。
物語の感動とは、そのような表面的な周波数に頼らない、
意味(ストーリー)の世界での感動なのだ。

○○な前提があって、○○なことを証明するために、主人公が命をかけてなしえたこと、
世界が変わったこと、その勇気、信念、ただしさ、カタルシス、
その感動は、脚本だけで書くことが可能だ。

感動する曲や歌で増幅されることは、映画の中では否めない。
たとえば、どんなドラマでも、ロッキーのテーマが鳴れば、
チープでも感動する可能性はある。
だからといって、空虚な物語に感動音楽をつけただけでは、
結局短時間の号泣でしかないだろう。
その号泣は、おそらく音の共鳴のレベルである。
物語の感動とは、もっと深い、心や人生との共鳴のレベルのはずだ。

もちろん、サラ自身もそのことをわかっていた上で、
あえて余興としてやってみせたのかも知れないが。



キャストはすぐれた人形である、と書いたのは、
ここまでの能力を、すぐれた役者は持っている、ということだ。
それをどう使うかが、人形遣いの仕事だ。

彼らの「芸」で、台本がなくとも、ある程度もたせることは出来る。
が、映画を見に来るのは、芸を見に来る訳ではない。
映画でしか見れないなにがしかを求めて来るのである。
それは、脚本にしか、書いていないもののことである。

(「陰陽師」というどうでもいい映画では、本編よりも、
エンドロールでの野村萬斎の舞=芸のほうが価値があった。
「のぼうの城」でも同じく、物語そのものより、
野村萬斎の白痴芸のほうが面白かった。
つまり、脚本も監督も、野村という人形を、使いこなせていない)
posted by おおおかとしひこ at 23:55| Comment(1) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
アルマゲドンはオアシスじゃなくてエアロスミスですよ!

あとアルマゲドンの予告編は、国際版のトレーラーではアクション路線の予告編だったものを、日本の予告編演出家である上村貴史さんという方が再編集した日本オリジナル版です。
僕もあれには相当感動して、どうしてももう一度見たいのですがDVDにもBlu-rayにも収録されておらず、YouTubeにもあがってこないので非常に残念です。

上村さんは「パール・ハーバー」の日本版予告編も再編集されていて、あれも「タイタンズを忘れない」のスコアを見事に使った、本編からは想像もつかない名予告編でしたね…。
Posted by ほら at 2014年03月04日 02:46
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