僕個人の見解である。
なぜなら、映画とは、リアリティーがベースの実写世界であり、
物語とは、「困難の克服」であるからだ。
いつも書くけど、
書く人間は、リア充ではない。
膨大な時間を物語世界ですごし、膨大な時間を創作に使わないと、
一本の脚本を完成させるだけの体力と創作意欲を維持することはできない。
脚本を書くスタート時点で、人生では負け組のスタートである。
こうしている間にも、リア充たちは素敵な人生を謳歌している。
非リア充には、成功体験や克服の経験は、
リア充に比べて、はるかに乏しい。
そしてそれは、負のループをする。
だからか、多くの、脚本を書きたい人の書く物語は、
主人公が自ら困難にいどみ、命を危険にさらしてまでついに解決する物語ではなく、
平凡で駄目な主人公に、ある日奇跡が起こり、
何故か主人公を助ける人たちで溢れて人生がトントン拍子に進み、
最後の最後だけ、弱い自分でも可能なレベルの小さな決断をして英雄になる、
という物語が、とても多い。
僕は関西で山ほど自主映画を見てきたし、
最近の若いやつが書く企画を見る立場にいるし、
かつては自主映画をつくる若いやつの一人だった。
だから痛いほど分かるのだ。
非リア充のルサンチマンの解放に、
脚本を使わないでくれと。
或いは、初期作品ならぎりぎり許される。
誰にもない独特の感性で描かれた世界は、
芸術の価値がありえるかも知れないからだ。
だが、その価値は、恐らくストーリー以外にあって、
ストーリーはありがちだけど、という作品であろう。
脚本とは、100%ストーリーを書くものである、
ということを忘れてはならない。
世界観やビジュアルや芝居のよさは、脚本の担当パートではない。
自主映画に多く見られるパターンは、
自分探しである。
アイデンティティーがうまく安定していないこと、
がテーマだ。
たいてい、奇跡のようなことが起こり、
旅の末、アイデンティティーの一部が旅をしたことで確定する、
という物語だ。
しかも、男が書くなら、女が主人公になるパターン。
繊細な言葉、繊細な音楽(たいてい、ピアノ)。
(或いは真逆に、ハードでえげつない世界に走る。
お金がかかるため、自主映画ではこのパターンは少ないが、
「鬼畜大宴会」「狂い咲きサンダーロード」の系譜が脈々とあることはある)
弱い自分を書くのは嫌だから、
ありうべき自分を創造し、
非リア充には出来なかったことを代理体験させる。
だから主人公=自分になってしまい、
三人称文学の基本である「他人を描く」がおろそかになる。
(主人公=自分の危険性については、何度か書いている。
自分にとって明らかなことが、他人にとってもそうかどうかの保証はない。
主人公=自分の危険は、そのような客観性を失うことでもある)
ナレーションの多用、心象風景の多用は、
主人公=自分の代表的特徴だ。
この閉鎖的な自主映画表現は、
決して他人を感動させることはない。
共鳴する人はいる。同じような経験をした人だ。
それは、傷をなめあうことは出来るかもしれないが、
そうでない人(=他人)を巻き込んで感動させるほどの、
内容にはなりえない。
そして、映画とは、それを要求されるマス芸術である。
(或いは、小説ぐらいの純文学ジャンルなら、
この形式もありえるかも知れない。きちんと読んでいないので批評出来ないが、
いわゆる私小説とは、そのようなものかもだ)
この閉鎖性から抜け出して、
メジャー性を獲得するには、
誰でもが見て感情移入出来る物語とは何か、
という感触を知り、自分の中でつくれるようになる必要がある。
そして、物語とは、「困難の克服」である。
成功体験、克服経験を持たない非リア充が、
客観性のある、リアリティー溢れる、だがルポではない架空の、
困難の克服を量産出来るだろうか。
一本や二本なら出来るだろう。
何本も何本も、は無理ではないだろうか。
リア充になる、という一番難しい課題こそが、
実は脚本家にとっての課題であると思う。
逆に、リア充になってしまって創作が駄目になった例は多いだろう。
それはそれで、人生としては幸せなのかも知れないが。
創作の原泉は欠損だ。
それはどの時代でもどの国でも変わらないだろう。
「困難の克服」以外の創作分野、
絵画や彫刻や音楽や演じることやパフォーマンスや建築や私小説などは、
これを気にせずに突っ走れるかもしれない。
だが、映画とは、どんな困難かを示し、それをどう克服するかを競うタイプの、
創作ジャンルである。
困難とその克服に、詳しくないと意味がないのだ。
全ての困難と克服を経験しないと駄目な訳ではない。
人間には類推能力というものがある。
ただし、それと似たような、同程度の困難と克服の経験を持たない限り、
リアリティー溢れるように書くことは、多分出来ない。
ひらたく言えば、童貞にはラブストーリーが書けない。
(ラブコメディは書ける)
仕事でも、部活でも、バイトでも、趣味の世界でも、
なんでもいい。それらの成功体験を思いだそう。
もし子供時代にしか成功体験がないとしたら、
子供の映画の脚本を書き続けることも出来る。
藤本弘(藤子F)は、本人の体験はわからないが、
そのような作家だと思う。
2014年02月23日
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