2014年02月24日

映画とは、勝利を描くことである

と、極論してみる。
世の中にはバッドエンドやビターエンドなどの映画もあるし、
中二的にはそのほうがカッコイイ気もするが、
本当に書くのが難しいのは、胸のすくようなハッピーエンドだ。

映画とは困難の克服である、
などと小難しいことよりも、
映画とは勝利を描くことだ、と考えると、
物語に必要な要素が見えてくる。

映画には二種類しかない。
いつも勝利する人が、最大の困難に出会い、勝利する話か、
勝利には縁のない人が、頑張って勝利する話である。

前者はヒーロー的な主人公であり、
後者は庶民的な主人公だ。
いずれにせよ、感情移入が必要である。
感情移入とは、俺と同じ人間なんだな、と思わせる部分だ。
特異なシチュエーションに陥ったことへの興味、
という第一段階の感情移入は、
それに対する主人公の人間くさいリアクションで、
人間としての魅力を描くことが出来る。

よくあるのは、完全無欠のヒーローでも、
からきし駄目な弱点があることだ。
(その弱点の克服こそが物語のテーマになるとき、
完全無欠の主人公だとしても、己の弱さと闘うことになる。
この瞬間、完全無欠ではない、脆くて傷つきやすい、
生身の人間になる)

庶民的な主人公なら、大抵感情移入に値する、
駄目なエピソードからはじまるだろう。
庶民的な人間なら、とかくトラブルは避けたがる。
避けて避けているうちに、大きな一番出会いたくないトラブルに出会う。
大抵、これが駄目な自分を変えるチャンスになる問題である。
ハイリスクハイリターンの解決しなければならない問題だ。
リスクを承知で、リターンのために庶民は動く。
そのリターンを心底欲しがっている、
という序盤の感情移入がだいじである。


いずれにせよ、冒険への出発には、
個人的な理由があり、それは、自分の弱点と表裏一体なのである。


最終目標が勝利である、
ということは、どこかで、最悪の敗北を喫する必要がある。
大逆転劇が気持ちいいから、その敗北はクライマックス前の山場に置かれることが多い。
これをボトムポイントという。
(ブレイク・シュナイダーは「死の気配」と定義する)
とすると、その前の山場は、かりそめの勝利または敗北、
というミッドポイントになる。
その前の山場は、ミッドポイントの項で議論したように、
主人公の快進撃または地獄の目にあうことだ。
自動的に、7つの山場がこの表のようになる。

ACT 1
15分: (今の所法則性はないが、大抵異物との出会い直後)
30分: 第一ターニングポイント

ACT 2
45分: 快進撃または地獄をみる
60分: (MP)かりそめの勝利または敗北
75分: ボトムポイント
90分: 第二ターニングポイント

ACT 3
クライマックス
大逆転劇(最も描きたい、解決の瞬間)
ラストシーン(テーマの定着)


これは、典型的なハリウッド映画の骨格だ。
いわゆる、王道、黄金パターンである。
統計をとった訳ではないが、
良くできた基本的な骨格の物語は殆どこのパターンだと思う。


勿論、我々は日本人であるから、
なにもエイドリアーン!のような勝利を描く義務はない。
だとしても、どのような勝利であるかは、
問題を設定した直後に考えるべきことだ。
(非リア充だと、この解決にリアリティーがなかったりする。
リアリズムのある勝利が描けなくて、リアリズムある敗北を描く自主映画は、
まれによくある)


永遠の幸福、大団円、大逆転劇、大勝利、スマッシュヒット、
まあまあの勝利、試合に負けたが勝負には勝っている、
とりあえず局地的な勝利で功をなした、
苦い勝利、勝利とも敗北ともいえる、イーブン、
僅差の負け、惜しい負け、戦略的撤退、
敗北、理不尽な敗北、
救いのない敗北、永遠にループする負の敗北、
など、勝利と敗北の間には、様々な人生のニュアンスがある。
ハッピーエンド、ビターエンド、バッドエンドという三種類だけでなく、
物語の終わり方には、様々なニュアンスをこめることが可能だ。
人生は信ずるに値する何かがあるか、
人生とは結局意味のないことか、
などを、勝利と敗北の間のニュアンスで描きわけることが可能だ。

あなたの物語の結論は何か、決めているだろうか。
それを決めない限り、逆算して7つの山場をつくることは出来ない。


脚本は、頭から順に書くものではない。
書くことは出来るが(大抵は挫折する)、
出来上がったものは紆余曲折や迷いが多く、
現実の上演で見るとタルイところのある、
引き締まっていない脚本になる。
焦点を保ち続け、興味を持続させるには、
リズムに乗っている必要がある。
ということは、逆算で譜割りに乗せなければならないのだ。

あなたの物語が、15分置きに訪れる集中力の切れを、
うまく山場で集中させるためには、
15分ごとのブロックに話を切り分けなければならない。
それは、頭から全体が見えないままの執筆では、おそらく不可能だ。
全体が見えて、はじめて譜割りが可能だと思う。
(例外的に、調子のいいときは、頭の中の想像だけでうまくいくときもある。
しかし、一ヶ月毎日最高潮ということは、人間にはない)


映画とは勝利を描くことである。
主人公の勝利だけではない。
主人公の信じる価値の勝利をも、描くことが出来る。
それがテーマであることは、明らかだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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