2014年02月27日

ファンタジーは何故いけないか

そんなもんファンタジーだ、という批判はよくある。
ファンタジーが悪いのではない。
それが、できの悪いファンタジーであることに批判が集中する。
リアリティーのない嘘が、
他人を騙しきれていないことを言う。

ファンタジーには、出来のいいものと悪いものがある。
そして、良くない映画は、出来の悪い方のファンタジーだ。


創作物語のファンタジー度数は、そもそも高い。
創作とは妄想のことであるから当然だ。
魔法や、宇宙人や、竜や妖精やお化けや妖怪やロボットは、
たのしい物語の基本要素である。
小説、絵本、漫画やアニメやクレイアニメや演劇あたりでやる分には、
恐らく問題なくファンタジーは通用する。

問題は、実写というジャンルでのファンタジーだ。

以前から、非ファンタジーの脚本論においてすら、
リアリティーの問題について話している。
経験に基づく想像でなく書くと、童貞の書いたラブストーリーのように陳腐になる。
「リアリティーのある解決」が映画には必要である。

ファンタジーが実写にあるということは、
その程度のリアリティーを、少なくとも持たなければならない。


それは、CGがリアルにつくれたらリアリティーがある、
と思う浅はかな考えではない。

CGがいかにリアリティー溢れる表現であったとしても、
それは、役者の一芸に過ぎない。
ダンスやギャグや泣かせる歌声のようなものだ。
それは、全編通してもつものではない。

どうしてそれが存在しているか、
それがストーリー上どのような意味があるか、
それが他の人間とどのように関わるか、
人間と関わっていないとき何をしてるか、
どのような感情をもったり、バックストーリーを持っているか、
行動と決断、判断や事情や立場や因縁やコンフリクト、
どういう経緯で次に何をするか、
などの、シナリオに必要な、
登場人物としてのリアリティーが必要なのだ。
それのないファンタジー要素は、出来の悪いファンタジーだ。


逆にリアリティーが微妙なCGだとしても、
そこに確固たるシナリオ上のリアリティーがあれば、
それは出来のよいファンタジーになる。

「いけちゃんとぼく」を例にとろう。

最初、いけちゃんのCGはチープに見える。
それは予算上しょうがない。
ハリウッドの何百分の一でつくっている。
しかし、物語が進行するにつれて、
それが人格として徐々にリアリティー(実写世界での実在感)を増してくる。
ぶっちゃけて見も蓋もないことを言うキャラだったり、
実は女である(嫉妬する)ことが分かったり、
母と会話するシーンに至っては、もはや人間同士の会話だ。
(このシーンは僕がつけ足したオリジナルであるが、
映画のなかでも白眉のシーンのひとつだ)
勿論、演ずる蒼井優の上手さにも助けられてはいるが、
リアリティーを増して行くのは、ストーリー(因果関係、理由、行動)の力だ。
ラストの別れのシーンにおいて、いけちゃんへの感情移入はピークになる。

思い出してほしい。
最初のチープなCGと、絵的な表現はなんら変わっていないことに。

それどころか、透けていく表現なんて、50%ハーフで乗っけている、
昔ながらの技法である。
(涙のCGは、技術的に大変難しいけど。
僕が提案したのは、溢れて目にたまる涙と、つつーと流れる涙を、
別オブジェクトにして、ハーフで重ねる、特撮的考え方だ)
それが、文脈の力で、完全に架空のものが映画内で「実在」を獲得しているのだ。

リアリティーの獲得は、絵的にあまり行われていないことに注意されたい。
例えば草の上を歩くときに、草を動かすなどの干渉はさせていない。
砂浜についても同様だ。あしあともつかないし砂も跳ねない。
助監督は、そのようなリアリティーを詰めることがリアリティーを高める、
と主張したが、全体の予算配分(現場の手間も)を考えて、
脚本的なリアリティーだけで勝負することにした。

やつ(彼女)が何を考えていて、何を隠していて、
何を恐れていて、何を喜んで、
主人公と会っていないときは何をしていて、
バックストーリーは何で、主人公にはなんだと思われていて、
周囲の人間関係との距離の取り方、行動、
それが現れる台詞(とくにラストの別れのシーンの台詞は、
設定は原作準拠だが、ほぼオリジナルで相当に練ってある。
「あいしてる」という五文字に全てをこめようとした僕に、
周囲はリアリティーがない、大好き、程度におさめるべき、
と反対したが、結果を見ればわかる。
ここでCGから彼女は人間側に来るのだ。
蒼井優の名演技が、僕の心意気を支えている)、
全てにおいて実在の人物としてのリアリティーを構築してある。

「いけちゃんとぼく」はACT 1の失敗さえなければ、
傑作の部類に入れた、大変惜しいファンタジー映画である。
(いずれ、リベンジはどこかでしたい)


出来の悪いファンタジーは、
実写に馴染まない。
実写世界での実在感、リアリティーが持てていない。
こういうものがほんとにいたら、その周りはどうなるだろう、
が考えられていない。
「風魔」を例にとれば、
忍者に姓がなかったり、ケータイをはじめて見たり、
みんなで飯をくったり、コンビニの釣り銭を持っていたりすることは、
「車田漫画の忍び」というファンタジーを、
実写世界で実在させるためのリアリティーだ。
(そしてそれを皆さん大変楽しんで頂いたようだ)


具体的に何をすればリアリティーが出るかについては、
法則性はない。
あるとしたら、ビジュアル表現でないところで、
リアリティーあるなあこれ、と思わせたら勝ち、ということか。
現実世界で、こういうことがリアリティーか、というネタを探しておくのも手だ。
「帽子屋がつぶれないのは何故か?
帽子を被る人は今殆どいないのに。
実は小学校の帽子の大量購入で、成り立っている」
というリアリティーが、僕は好きだ。
posted by おおおかとしひこ at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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