そんなもんファンタジーだ、という批判はよくある。
ファンタジーが悪いのではない。
それが、できの悪いファンタジーであることに批判が集中する。
リアリティーのない嘘が、
他人を騙しきれていないことを言う。
ファンタジーには、出来のいいものと悪いものがある。
そして、良くない映画は、出来の悪い方のファンタジーだ。
創作物語のファンタジー度数は、そもそも高い。
創作とは妄想のことであるから当然だ。
魔法や、宇宙人や、竜や妖精やお化けや妖怪やロボットは、
たのしい物語の基本要素である。
小説、絵本、漫画やアニメやクレイアニメや演劇あたりでやる分には、
恐らく問題なくファンタジーは通用する。
問題は、実写というジャンルでのファンタジーだ。
以前から、非ファンタジーの脚本論においてすら、
リアリティーの問題について話している。
経験に基づく想像でなく書くと、童貞の書いたラブストーリーのように陳腐になる。
「リアリティーのある解決」が映画には必要である。
ファンタジーが実写にあるということは、
その程度のリアリティーを、少なくとも持たなければならない。
それは、CGがリアルにつくれたらリアリティーがある、
と思う浅はかな考えではない。
CGがいかにリアリティー溢れる表現であったとしても、
それは、役者の一芸に過ぎない。
ダンスやギャグや泣かせる歌声のようなものだ。
それは、全編通してもつものではない。
どうしてそれが存在しているか、
それがストーリー上どのような意味があるか、
それが他の人間とどのように関わるか、
人間と関わっていないとき何をしてるか、
どのような感情をもったり、バックストーリーを持っているか、
行動と決断、判断や事情や立場や因縁やコンフリクト、
どういう経緯で次に何をするか、
などの、シナリオに必要な、
登場人物としてのリアリティーが必要なのだ。
それのないファンタジー要素は、出来の悪いファンタジーだ。
逆にリアリティーが微妙なCGだとしても、
そこに確固たるシナリオ上のリアリティーがあれば、
それは出来のよいファンタジーになる。
「いけちゃんとぼく」を例にとろう。
最初、いけちゃんのCGはチープに見える。
それは予算上しょうがない。
ハリウッドの何百分の一でつくっている。
しかし、物語が進行するにつれて、
それが人格として徐々にリアリティー(実写世界での実在感)を増してくる。
ぶっちゃけて見も蓋もないことを言うキャラだったり、
実は女である(嫉妬する)ことが分かったり、
母と会話するシーンに至っては、もはや人間同士の会話だ。
(このシーンは僕がつけ足したオリジナルであるが、
映画のなかでも白眉のシーンのひとつだ)
勿論、演ずる蒼井優の上手さにも助けられてはいるが、
リアリティーを増して行くのは、ストーリー(因果関係、理由、行動)の力だ。
ラストの別れのシーンにおいて、いけちゃんへの感情移入はピークになる。
思い出してほしい。
最初のチープなCGと、絵的な表現はなんら変わっていないことに。
それどころか、透けていく表現なんて、50%ハーフで乗っけている、
昔ながらの技法である。
(涙のCGは、技術的に大変難しいけど。
僕が提案したのは、溢れて目にたまる涙と、つつーと流れる涙を、
別オブジェクトにして、ハーフで重ねる、特撮的考え方だ)
それが、文脈の力で、完全に架空のものが映画内で「実在」を獲得しているのだ。
リアリティーの獲得は、絵的にあまり行われていないことに注意されたい。
例えば草の上を歩くときに、草を動かすなどの干渉はさせていない。
砂浜についても同様だ。あしあともつかないし砂も跳ねない。
助監督は、そのようなリアリティーを詰めることがリアリティーを高める、
と主張したが、全体の予算配分(現場の手間も)を考えて、
脚本的なリアリティーだけで勝負することにした。
やつ(彼女)が何を考えていて、何を隠していて、
何を恐れていて、何を喜んで、
主人公と会っていないときは何をしていて、
バックストーリーは何で、主人公にはなんだと思われていて、
周囲の人間関係との距離の取り方、行動、
それが現れる台詞(とくにラストの別れのシーンの台詞は、
設定は原作準拠だが、ほぼオリジナルで相当に練ってある。
「あいしてる」という五文字に全てをこめようとした僕に、
周囲はリアリティーがない、大好き、程度におさめるべき、
と反対したが、結果を見ればわかる。
ここでCGから彼女は人間側に来るのだ。
蒼井優の名演技が、僕の心意気を支えている)、
全てにおいて実在の人物としてのリアリティーを構築してある。
「いけちゃんとぼく」はACT 1の失敗さえなければ、
傑作の部類に入れた、大変惜しいファンタジー映画である。
(いずれ、リベンジはどこかでしたい)
出来の悪いファンタジーは、
実写に馴染まない。
実写世界での実在感、リアリティーが持てていない。
こういうものがほんとにいたら、その周りはどうなるだろう、
が考えられていない。
「風魔」を例にとれば、
忍者に姓がなかったり、ケータイをはじめて見たり、
みんなで飯をくったり、コンビニの釣り銭を持っていたりすることは、
「車田漫画の忍び」というファンタジーを、
実写世界で実在させるためのリアリティーだ。
(そしてそれを皆さん大変楽しんで頂いたようだ)
具体的に何をすればリアリティーが出るかについては、
法則性はない。
あるとしたら、ビジュアル表現でないところで、
リアリティーあるなあこれ、と思わせたら勝ち、ということか。
現実世界で、こういうことがリアリティーか、というネタを探しておくのも手だ。
「帽子屋がつぶれないのは何故か?
帽子を被る人は今殆どいないのに。
実は小学校の帽子の大量購入で、成り立っている」
というリアリティーが、僕は好きだ。
2014年02月27日
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