ある作品を批評するとき、
自分好みの作品に改造したいだけでは、という批評をしてしまいがちだ。
自戒もこめて、批評と作品の再構築について考える。
その作品が物足りないから、そもそも批評をする。
惜しいときも同じだ。
「惜しい」というのは、あとひとつ何かが足りなかったことだ。
足りないとき、こうすればよかったのでは、
と何かを足して混ぜようとする。
これはいらない、と何かを切り捨てる。
しかし、注意したいのは、
それを自分好みに改造したいだけという(無意識の)衝動だ。
足りないものを理想型に近づけて議論しようとするとき、
その「理想型」が、自分好みの理想の可能性があることは、
自覚したほうがよい。
あるいは、今まで見た理想型のこともある。
これは、批評される側からすれば、
勝手に違う方向へ改造されたり、既存の古いものに当てはめられている不快しか残らない。
本当の批評は、その作品が持つ構造やテーマを抽出して、
本来あるべきパーツが欠けていたり、過多であることを示し、
本来の理想型からの視点で、作者以上に妥当に語ることだ。
その理想型は、おそらくひとつではない。
ある作品の初期稿から、いくつもの完成形が生まれる可能性と同様、
ありえる理想型は、いくつかの可能性があると思う。
僕はそのような批評をするとき、
なるべく、「俺好みの話だと」こうあるべき、と前置きをつける。
つけ足した俺好みの部分の抽象的な性質を抜き出し、
具体的には俺好みのこのようなものが欲しいが、
抽象的にはこのような性質のことが足りなかったのでは、
というような批評をするようにしている。
その抽象的なことが合っていたとしても、
作者にとって違う具体である可能性のほうが高い。
だから、作者にその具体を思いつかせるように、
(その作者が前にいれば)誘導するようにするのが一番いいと思っている。
しかし、これは相当にめんどくさい。
理想型を考えるだけでも面倒なのに、
さらに抽象性を抽出して、
さらに具体を導きだすカウンセリングまでやらなければいけない。
だから、ついつい、理想型を示して終わり、
という創造的昇華で終わらせることが多い。
もちろん、これが、所詮僕好みのパターンで、
その作品が本来潜在的に持っている要素ではないことのほうが多いだろう。
その作品が本来潜在的に持っているもの、とは、
テーマであり、モチーフであり、世界観であり、
現状の作品内では見られない、本来やろうとしていたことである。
それを芽吹かせ、成長させるのは、作者自身にしか出来ないことだ。
成長させるにはエネルギーがいる。
足りないのだという自覚と、成長させなければならないという必死さだ。
それが作者にない限り、物足りない作品は、いつまでたっても物足りない。
以前にも書いたが、作者にとって本当に欲しいのは、
自分と同レベルに議論してくれる人だ。
自分に気づいていない自分を発見してくれる人だ。
過剰の場合もある。
複数の重ね合わせになっている場合もある。
大抵、ソロでは微妙なストーリーラインが重なることで、
どうにか作品たりえているような、寄りかかった長屋のような構造だ。
一番大事なものだけを取り出すと、とても一本立ち出来ないやつだ。
これを、足りない一本として、
最初の議論をするのが正しいやり方だ。
過剰は、足りないという不安の現れだからだ。
いずれにせよ、作品の本質がどこにあるかを突き止めることだ。
何度も言っているとおり、
全ての化けの皮を剥がすと、
オレスゲーが一番芯にある物語は、存在価値がない。
この話面白いんだよ、ついてこいよ、には存在価値がある。
前者の場合は、めんどくさいときは切り捨てて終わりだ。
後者の場合でも、自分好みに改造したくなる欲望を、
客観的に自覚しながら再構築しないと、
俺が気持ちいいだけになってしまう。
理想は、批評と再構築を、作者自身でやることである。
その客観性がないからこそ、他人の目が必要なのだが。
しかし、その他人は神ではなく、個人であることもまた忘れてはならない。
個人の好みで、あるものを改造したがる、という癖は、
それがある程度才能のある人なら当然持っている力である。
好みによる改造をしているのか、もっと根っこまで戻った理想型について考えているのか、
批評される側は、おそらく区別がつかない。
(区別がつくほど客観的ならば、そもそも足りないものなど書かない)
他人による批評は、このような危険があることを、
批評する人も、批評される人も、知っておくべきだ。
重要なことは、具体的なこと
(例:ここで斧を持った軍隊が馬に乗って乱入する!)
ではなく、抽象的なこと
(例:この世界の外部とはどこか。今起こっていることを外部が知ったとき、
ここへやって来るのではないか。そのような力学についてどう根拠をつくってあるか、
あるいは巧みにそれを隠しているか)
を議論するのが、建設的な批評空間である。
2014年02月25日
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