2014年02月28日

言葉は歌(サラ・ベルナール続論)

サラ・ベルナールの逸話について考えていたら、
簡単な例を思い出した。
「大阪では、1から10まで言うだけでオモロイ歌になる」
の話。

関西人なら誰でも出来ることだ。
知らない人は、身近に関西人がいたら、
風呂に入って1から10まで数えるやつやって、といえば、
100%例の歌が聞けるだろう。
歌詞でいえば、「1 2 3 4 5 6 7 8 9 10」
だけなのだが、
「いーちにぃーさんーしぃ」と節回しがつくのである。
それが歌のようになる。

これを、「大阪弁では、1から10まで数えるだけで、
笑いがとれる」とおおげさに言うこともできるだろう。
大阪弁は、言葉が既におもろく言うように出来ている。

「おーまーえーはーあーほーかー」とノコギリに歌わせる芸人がいる、
と言っても関西人以外は信じがたいかも知れない。
横山ホットブラザーズの持ち芸である。
言葉と歌は、ここでも不可分である。

じゃんけんをするときも、節回しがある。
僕の出身の茨木市あたりでは、「いんじゃん」という。
「いーんじゃんで、ほーい」と歌をうたうようにやる。
奈良の方では同じメロディで、
「じゃーいけんで、ほーい」と言うらしい。
茨木市と奈良は生駒山を挟んで反対側なので、
生駒山脈の東西で、同じメロディの歌詞(訛り)違いが伝承されていることになる。
おそらくだが、このメロディは関西地方に広く普及していると思う。
(ナイトスクープあたりの民俗学的ネタであろう)

野球をするとき、「ピッチャーびびっとる」と歌でプレッシャーをかける。
ピッチャーびびっとる、ヘイヘイヘイ
ピッチャーびびっとる、ヘイヘイヘイ
ピッーチャーびびっとる、あ、びびっとる、あ、びびっとる、あ、びびっとるー
という歌だ。
囃し文化、とでもいえばよいだろうか。
当のピッチャーはやかましいわボケ!とツッコムことでプレッシャーから逃れようとする、
そんな場面が子供のころにはたくさんあった。

甲子園の応援でも、
おーーーーーー三振!
(ツーストライクまで追いこんだら、おーーーーと唸り声を出す。バットを振る瞬間に三振!とさけぶ)
とか、
あと一人!からあと一球!の流れとか、
阪神の応援には、歌や拍子や間などの、言葉の文化が大きく影響している。

そうでなくとも、
関西のおばちゃんは、なんでやねん、とか、あらそうかいな、
などの普通の言葉でも、自作のメロディで歌うことは日常茶飯事だ。

それは、「日常をなるべくオモロイことにしようとする」
という大阪の言葉の文化ではないかと思う。
大阪の言葉は、オモロイトーンの歌でもある。

東京に来て以来、そういえば東京ではこのような光景を見た記憶がない。
ということは、関西特有の文化であることが考えられる。


さて、サラ・ベルナールだ。
フランス語は、詩的でエネルギッシュで、哀愁を帯びた歌の言葉だ。
その言語の歌を知るには、その地の歌を聞くとよい。
フランス語ならシャンソンだろう。
その悲しみと諦めのトーン。
その雰囲気で、サラは客を泣かせたのではないだろうか。

大阪弁なら河内音頭や吉本新喜劇のテーマだ。
もし、大阪弁をリアルに見たことのない地方のレストランへ、
関西の大女優がいき、
そこでただ1から10まで数えただけで、場をおもろい雰囲気にした、
という伝説が出来そうなことは、
大阪人である僕には容易に想像がつく。
ひょっとしたら、大阪ブルースのように、
「はじめ大笑いあとから号泣」のような浪花節のように仕立て上げたかもしれない。


僕は笑いベースの大阪弁がネイティブだから、
泣く、ということが理解できなかったかも知れないが、
大阪弁を考える事で、この仮説が真実味を帯びてきた気がする。
実際には、この目撃談に参加した人の話を拾ったり、
タイムマシンを発明しない限り分らないことかもしれないが。



言葉は歌だ。
それは、言葉は意味を伝えるための単なる記号ではない、ということだ。
役者は、記号に歌をのせる。
歌とは音のことであり、それは感情のことである。

脚本には、言葉が書いてある。
それは、意味や理屈や意志や説明の記号だったとしても、
感情が乗るということだ。

役者は、勝手に歌を乗せるのではない。
役者にその歌を乗せさせるように、脚本は書いてある。
怒って、とか喜んで、とかの指示でもなく、
わたしうれしい、とかせつないわ、とかの説明台詞でもなく、
ただなんでもない言葉なのに、
そこに感情という歌が乗るように、
脚本は書くのである。
正確には、具体的な言葉は書いていない。
文脈から、感情は導かれるのだ。

たとえば、「1 2 3 4 5 6 7 8 9 10」という台詞が、
看守が囚人をかぞえるときの台詞なら、普通は冷たい感情で冷静に読むだろう。

しかし、OLが休みを取って、遠距離恋愛の彼氏と10日間旅行出来るときに、
その10日間を1から数えるときの台詞なら、
うきうきした、大阪弁の数え歌を歌いだすに違いない。
逆に、看守が死刑囚を数えるときにこの歌をうたえば、
相当にこの看守はサディストである、という表現になる。


言葉は歌だ。歌とは感情のことだ。
感情は意味ではなく文脈のことである。
posted by おおおかとしひこ at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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