さらにこの話つづけます。
どうして僕がベタナレのCMを嫌いなのかがわかった。
(ベタナレとは、ナレーターが説明しつづける、ベタにナレーションを引いたCMのこと)
そこに歌(=感情)がないからだ。
ベタナレを好むのは、広告主の方々だ。
自分たちの商品は自信がある。
なぜなら、このような特徴があり、このような幸せを得られる。
これをしっかりと伝えることがCMの目的であり、
しっかりと伝えれば商品は売れる、
という「理屈」である。
それは机上の空論に過ぎない。
何故なら、そのようにあなたはテレビを見ていないではないか。
山ほど流れる沢山のCMの説明を、一から十まですべて理解し、
記憶し、その説明にうなって、商品の購買行動に出るのか。
否である。
説明なんてうんざりだ。
楽しむためにテレビを見ているのに。
CMとは、どのような感情を記憶させるか、という芸術である。
どのような理屈を納得させるか、というディベートではない。
映像とは、言葉とは、なにより歌である。
説明ではない。
映画の中では、説明台詞とは、初心者が犯す最大のミスだ。
すべての言葉は、感情を伴わなくてはならない。
ベタナレは、100%理屈である。
正しくいうため、景品法やPL法や薬事法に触れないように、
しかも比較対象は他社製品にしてはならない
(比較広告といって、日本ではタブーだがアメリカではよくある)。
サラ・ベルナールの話と真逆である。
だから嫌いなのだ。
先日ベタナレのナレーション収録をしたのだが、
せめてナレーションにニュアンスをつけようとしたら、
「聞き取りにくいので、もっとはっきり言って下さい」と指示が出た。
文脈からすればそこは明らかだから、感情的にはここは弱めた方が良い、
と反論したかったのだが、感情が言葉にのっていることを知らない、
ど素人に講釈をたれるのもめんどくさいのであきらめた。
逆に考えれば、
世の中には感情のない文章があふれている。
客観的に書かなけばならない、という教育のせいであろうか。
説明文、というのが昔からぼくは嫌いだ。
言語には、説明の機能は一部でしかない。
第一、説明は言語でするよりも、数学的な記号の方が一意になるだろう。
(だから哲学や法学などの、ことばで数学をする分野が理系のぼくには苦手だ)
ことばは、感情のない文章ではない。
あなたの書くことばには、どのような感情があるか。
感情のない文章など、脚本には必要ない。
一生商品の説明文でも書いて過ごすが良い。
我々の仕事は、サラが声をのせるにふさわしい、
二時間のことばを書くことだ。
2014年02月28日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック