2014年02月28日

感情の無い文章2

このさい、説明文は(映像には)必要ない、と結論付けてしまおう。

通販番組などでの、「おおー」という驚きは、
なぜわざとらしいのか。

それは、感情がこもっていないからだ。
正確にいうと、驚くほどでもない情報なのに、
無理やり驚いて見せるからだ。
それは、驚く演技の良し悪しとは関係がない。
「驚くほどでもないのに、驚いている」ことがおかしいのだ。

逆に、洗脳するときは、驚くことを周囲で連発し、
「驚かない私の方がおかしいのではないか」と疑念をいだかせるのが常套である。
仮に驚いて見せる芝居をさせて形をつくり、
いつのまにか驚いている感情を芽生えさせてゆくのが常套である。
だからたぶん洗脳で一番使われることばは、「おかしくないですよ、大丈夫」だ。

しかし、洗脳は閉鎖空間でしか通用しない。
洗脳は、いつか世間の常識にさらされ、解ける運命にある。


不自然な感情を、理屈にのせるからこういうことになる。
ほんとうに驚くべき情報なら、
「おおー」という演技をしなくても、みんな驚く。
つまり、「おおー」と驚いているということは、
その情報は驚くべきものではない。
つまり、すべてがうそっぱちだ。

人は、嘘だと分る情報には乗って来ない。
ほんとうに感情が動かされない限り、乗って来ない。

逆に、感情が動けば理屈がひっこむ恐ろしい生き物でもある。
それを利用したのがジャニーズ商法だ。
江戸時代に伝わる話で、巡回して来た歌舞伎を見に行った地方の奥方が、
とある俳優に夢中になり、金色の着物の裾の隙間から、
ちらりとイチモツをサービスで見せてくれた男をおっかけ、
巡回についていって村に帰って来なかったという。
すべてのアイドル商法は、恋心という感情という、同じ原理を使っている。


通販番組や、ベタナレは、感情のない文章だ。
理屈はあっていても、ちっとも心に響かない。
響かないどころか、わざとらしさすら感じる。

そのようなものは、我々が「夢中になる」映画物語とは、対極の存在だ。


あなたの書くことばが、仮に理屈は合っていたとしても、
なんら評価に値しない。
評価に値するのは、ほんとうに感情が動くことばのときだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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