人間同士の間には、誤解や中途半端な理解、
というのがつきものだ。
親と子、恋人同士、仕事仲間、上下関係、様々な行き違いがある。
「最初はバラバラな状態からはじまり、
最後に全員が同じ気持ちになる」のが物語だとすると、
誤解や無理解は、ドラマの基本のひとつになる。
人は、何が分かってないかが、分かっていないことがある。
これを、誤解のドラマに生かそう。
例えば数学などの勉強を思いだそう。
未だに分かっていないものではなく、
分かったものを例に想像するとよい。
人は、分かってない時は、何が分かってないかが、分からない。
とにかく何かの誤解や理解してないことのせいで、
何もかもがこんがらがる。
それが、ある分かってない所が分かった瞬間、
ドミノ倒しのように、全てが理解可能な世界になる。
僕は理系なので、高校の有機化学がそれだった。
ベンゼン冠とその枝葉という構造で認識すればよいのだ、
と分かった瞬間、系統樹をつくればいいことがわかり、
全てが氷解した。
(モルとかも、そうだった)
おそらくだが、悟りと呼ばれる現象は、
こういうことではないかと思う。
全てのモヤモヤが、分かってないところが分かり、
それが分かった途端に世界の見方が変わるようなことを、
悟りというのではないだろうか。
(恐らく、人の死とは何か、とか、人生の使命とは何か、とか、
根本的な問いへの答えがそうではないか、と思っている)
大学時代、高校生の家庭教師をやっていたのだが、
とくに数学などは、今やっていることの、
何が分かってないかを特定する作業が殆どである。
結局「負の数」が分かってない、というところまでたどり着いたこともある。
数学は積み上げの学問であるから、
負の数以降のやり直しを、そこですることになる。
(負の数の割算とか、直感の理解では難しい。
従って、数学とはこの辺りから、直感を離れて、
約束事という記号で行う、具体を持たない理論になる。
その事が分からないと、負の数を上手く扱えなくなる。
虚数とかも同じだ。大学数学、イプシロンデルタ論法、
オイラー展開などもそうだろう。
僕は数学専門ではないのでその先まで知らないが、
波動関数や特殊相対論のテンソル代数あたりで挫折した。
今思えば、n次元なんてのは、具体のない抽象論なのだ。
にしても、量子力学のコペンハーゲン解釈には納得がいっていないが)
分かってない所が分かるためには、
それこそ絨毯爆撃のように、
順番に理解を聞いて、あらわにしてゆく、
根気のいる作業が待っている。
これは勉強だけでなく、人とやる仕事でも同じだ。
企画書やシナリオを複数の人で練っているとき、
あるいは製作中、
ずっと訳が分からないことを言う人がいる。
(とくに、CM作業中、そういう素人が増えた)
その疑問を奥底まで紐解いていくと、
本当に初期の部分から誤解や無理解の種がいたことが分かることが多い。
つまり、訳の分からない誤解や無理解は、
現在ではなく、過去のはるかどこかに、あるのである。
そもそもこれが分かってなかったんかい!とツッコミたくなることは、
この仕事では、ままあることだ。
そういう紛糾は、最後の編集で起こることが多く、
こっちとしては閉口してしまう。
そういうことなら最初に言え、と言いたくなることが殆どだ。
最初にコンテや脚本で見せているはずなのに、
そこで発覚することは稀だ。
それは、誤解や無理解は、初期の時点では放置される、
という法則が人間にはあるからである。
途中で何かの違和感を感じていたが、
具体的な大きさを持たなかったので問題には至らず、
それが無視できない大きさになったとき、
(手遅れという形で)問題が発覚するのだ。
また、分かってない所が分かってない人は、
疑問がとんちんかんなことが多い。
分かってないから、問いも正しく問えないのである。
(正しく問えれば問題を殆ど解決したことになる、
というのは何かの哲学だったか)
問いにそのまま答えるのではなく、
何を分かってなくてその問いになるのかを探るのが、
正しい問いの聞き方である。
そうやって、分かっていない所を特定するようにする。
(デジタルが人を幸せにしないのは、
メールのせいで、きちんと会ってこのような誤解を探る機会が失われたことだ。
この問答は、対面でないと不可能だ)
これらを、誤解のドラマに組み込むとリアルになるだろう。
あの時ああ言った、などの誤解を複雑にしておき、
本当の誤解の原因は、最初に言った大事なことを聞き逃していた、
などとすると、リアリティーが増すだろう。
その一点が、これまでの理解(誤解)の図式を一挙に覆すような、
どんでん返しになればドラマチックになる。
例えば、「12人の優しい日本人」では、
「死んじゃえ」と「○○(ネタバレにつき伏せ字)」の誤解がキモだった。
これはギャグというパターンだったが、
泣きにも感動にも味付けを変えることは可能だろう。
それぞれによって、物語の構造は違うだろうが、
誤解と誤解をとくプロセスやどんでん返しぶりは、
同じ構造になるだろう。
そして、そのどんでん返しが鮮やかであればあるほど、
その結論へ至る誤解の道程が複雑であればあるほど、
カタルシスがあるだろう。
そのようなカタルシスがあるほど、
以降の絆や信頼感が揺るがぬものになるのは、
リアルでも物語内でも同じだ。
(これを昔の人は、雨降って地固まる、と一言であらわした)
2014年03月04日
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