「あたた」さんの質問への回答します。
僕が発言すると各方面に角が立ちそうなので、
これまでなるべく避けて来たのですが、「脚本論」という立場から。
「主人公の行動はあるが、動機がない(弱い、感情移入に値しない)」
ことに尽きると思います。
ドラマ版でも原作版(の最初)でも、それは姫子に惚れる事でした。
ドラマ版では、さらに忍びの掟という枷をかけてあります。
「対腐女子舞台コンテンツ」としての舞台版風魔は、
女子キャストを出さない、という方針です。
(これは僕が決めることではないです。僕は舞台版には何も噛んでいないし)
姫子が出ない事を決めた段階で、小次郎の動機を創作する必要があるのです。
忍びの掟に従って、とか、掟は気に食わないが仲間(麗羅?)の為に、とか、
男社会だけで完結させられるものを。
(だから中途半端に「小次郎がデートしにいく」なんて場面はつけて欲しくなかったんだよなあ)
仕事をするお父さんになかなか感情移入できないのと同様、
「ただ仕事をする」だけで感情移入をつくることは困難です。
「娘の運動会に出席したくて無理して仕事をつめこんだ」などの
「個人的理由」がわかるようにすると、途端に感情移入は行いやすくなります。
創作された小次郎の事情、動機に感情移入できれば、
「小次郎の物語」として、たのしめたのではないでしょうか。
ACT 1はそうなっていないし、
だからACT 2も接続できてないし、ACT 3がその帰結にもなっていない。
何故小次郎は武蔵と闘うのか?その目的がないから、
「目的→途中→解決」という三幕構成が機能していない。
原作版のダイジェスト、という感想はある意味正しくて、
監督メモでも書きましたが、
原作版、アニメ版を再見したときの「つまらなさ」が、
「こいつら何のために闘ってるんだっけ?」だったので。
舞台版を説明するときに、「忍びの集団が一対一で戦う」以外に、
見いだせない。なんで闘うの?
ドラマ版では、一般人である白凰学院をまもるため、という大義名分と、
姫子をまもるため、という個人的理由があったのにね。
舞台に詳しくない、と前置きしたのは、
ドラマと舞台は、また違うものだからです。
生でやることの面白さと、つくりこんだものの面白さは、別のものだからです。
ハプニングやアドリブもあるでしょう。
生歌や生ダンスや生殺陣もあるでしょう。
客の温度感によって芝居も変わります。
その客への芝居、という一回性が芝居の魅力です。
記録にのこさず、記憶に残すことがだいじです。
カメラによる切り返しがないから、ずっと好きな所を見続ける楽しみもあります。
照明効果や音響効果などの面白さもあります。(まさかライトで必殺技とは)
なにより、あこがれの人が、目の前でなにかしてるドキドキ感たらないでしょう。
終わった後のお見送りも、結構嬉しかったりします。
「映画は監督のものだが、舞台は役者のものである」という格言もあります。
舞台は、「見に行く」より「会いに行く」意識が強い気もします。
それらを全て生かした脚本を書けるかどうか、僕はちょっと自信ないので、
舞台版脚本については、これ以上つっこまないようにしたいです。
テニミュとか、お手本になるような奴も見たことないし。
舞台版で羨ましかったのは、
レビューショウと、「夜の雪→朝日」を出来たことだなあ。
僕が舞台版を見て最初に思ったことは、
実は、「僕がよかれと思って足したところ」が全部そぎ落とされていているという感想。
そこ残さなくてもいいのに、というちぐはぐ感。
結構傷ついたものですよ。自分の仕事が理解されてないんだなあって。
2014年03月05日
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ちょっと各方面に差し障る、いやな質問をしたとは思ってたのに、誠実にしかもわかりやすく教えていただいて…
動機が描かれてさえいれば、という指摘にものすごく納得しました。もしかして、動機が舞台で伝わってきたのはのは小次郎ではなく、絵里奈のために、という武蔵だけかもしれません。
舞台DVDを思い返しても、小次郎の空気っぷりが原作以上にすごかった。むしろ、特典についていた千秋楽?のパロディ風アドリブ版のほうがまだ楽しめました。
監督の構成した脚本で舞台を見てみたかったです。