つくった全部を、つくった人は見てほしいものだ。
何もかも誉めてほしいからだ。
表現の初心者はそこでおしまいだ。
その先にある話。
世界をつくることで精一杯な初心者は、
まずそれを何回もやろう。
そして、慣れよう。
慣れてくると、沢山の要素を思いつくようになる。
世界を複雑にしたり、裏表をつくったり、
どんでん返しを考えるようになる。
さらに慣れると、トゥーマッチがやってくる。
必要な量より、大量のことを入れ込みたくなる現象だ。
(たとえ初心者でも、はじめての作品にはこういう傾向がある。
映画サークルの後輩が書いてきた、はじめて書いた脚本は、
サークルでつくる平均的な映画が20分以内というときに、
2時間分の大アクション映画を書いてきた。
もちろん、学生ごときに撮れる筈がない)
必要な量は、いつも思うより少なめでよい。
要素の数も、いつも思うより少なめでよい。
何故か。
観客は、想像するからである。
余白、余地と呼ばれるものがあると、
人は勝手に想像を膨らませるのだ。
少し足りないくらいが、余白があって丁度いいのである。
ラーメン二郎のように、何もかもマシマシでは、
それが「何か」わからなくなる。
理想は和食だ。空白の部分=食器も料理である。
ご飯と主菜と汁と香の物、シンプルな組み合わせが、
装飾がつきすぎて原型を止めていないマシマシより、
実はダイナミックなのである。
物理的なダイナミックではない。
「我々の頭のなかで想像される、ダイナミズム」が、
ダイナミックなのだ。
マシマシは塊の一個ドーンでしかなく、組み合わせの妙にならない。
一個ドーンは、組み合わせの豊かさに比べ、貧弱である。
パンチラは、パンツが見えては興醒めだ。
我々は、パンツが見えそうという想像の余地があるダイナミズムに興奮している。
パンツを見せるのは、貧相なものの考え方だ。
物語とは、実際には文字や映像や音声だが、
ほんとうは、
書き手と観客の頭のなかに、いっとき共有される想像、
のことである。
書き手がマシマシにしては、想像の余地がなくなるのだ。
あるものから、ない部分を想像する楽しみは、
物語の基本的楽しみのひとつなのだ。
(この意味において、二次創作は基本的に物語を楽しむ行為である。
ただしアンダーグラウンドであり続ける限り。
商売にしちゃあいかんよねえ。税務署も表の取引扱いしてくるぞ)
だから、その後は想像のお楽しみ、で終わる物語は、
上等な物語である可能性がある。
(単に打ちきりとか、カタルシスを描けていないとか、実力不足をのぞく)
トゥーマッチに気づいたら、
一端何かをごっそり捨ててみよう。
あるいは、物凄く寝てすっかり忘れて、
白紙に世界を描いてみよう。
全く知らない他人に説明するのもよい。
白紙に書くのは、そのシミュレーションだ。
大きな要素は、せいぜい三つだろう。(ほんとは2.5)
あるいは、ふたつにしてみよう。
そこにシンプルなダイナミズムが生まれそうなら、
それはいい塩梅に想像の余地がある構造だ。
初めてのデートで、
あなたは女の子をどうリードしようとしてプランを練ったか。
多分、トゥーマッチだった筈だ。
正しいデートは、腹八分目にしておいて、
もうちょっと一緒にいたいと思わせることだ。
必要な量の見極めには、慣れがいる。
慣れは、場数からしか生まれない。
だから僕はいつも数を書くことをすすめている。
何回目のデートで、やりすぎや、足りなさすぎを自覚出来ただろうか。
それぐらいの、場慣れが脚本執筆には必要だ。
ご想像にお任せします、と我々に妄想を与えてやまない壇蜜は、
腹八分目の上級者である。
全部見えたら、その瞬間にお腹一杯になって、
飽きられるということを知っている。
相手がどれぐらいの情報を受け取っているか分かってて、
どれぐらいの量が欲しいか分かってて、
どれくらい見せなければ相手が狂おしい妄想にひたるか、
的確な把握が必要だ。
ストーリーテリングは、観客との対話、駆け引きでもある。
2014年03月08日
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