という前提でいよう。
第一稿から名作なのは、よほどのベテランである。
ベテランほど、なかなか書かない。
書く前に、問題点を発見し、クリアするまで練るからだ。
書きながら考える初心者中級者の自転車操業では、このやり方が出来ない。
だが、物語の初期衝動は、
必ず第一稿にあらわれる。
こういう物語を書きたいんだ、
こういう物語が世の中にあるべきだ、
という強い思いや信念は、最初に書いた言葉にあらわれる。
それは芝居のファーストテイクのように、
二度と再現できないフレッシュさがある。
第一稿は、必ず保存しよう。
デジタルファイルで整理するのは楽だが、
僕は手書きなので、段ボールが大変なことになる。
それでも初期衝動の記録は、非常に重要だ。
リライトという、ときに第一稿より長丁場の旅を完遂するのに、
最終目標を照らす灯台となるからである。
第一稿が酷いのは、
客観的な目端が効いていないからである。
僕の経験上、ありがちなのは以下のようなものだ。
主人公や特定の人物に偏って、他の人物が中途半端、
話の勢いを重視して、無理があったり矛盾がある、
リズムが整っていなくて、疎密がはげしい、
口で言う台詞になっていなくて、概念を言っているだけ、
話を押しつけるだけで、まだ引き込むようになっていない、
オープニングが間違っている(話に対してのベストが検討されていない)、
ACT 1がまだまだ散漫、
ACT 2が退屈する、とくに最初の勢いが止まり、何をやってるか分からないポイントがときたまある、
焦点とターニングポイントの連関が途中で消える、
詰め込んでいて、想像させる部分の引き算を考えていない、
説明が下手、
同時進行がいくつあるか明確でなく、同時進行としていい見せ方になっていない、
作者の言いたいことをそのまま言ってしまっている
(本来は言わないで感じさせること)、
スリリングな状況が、いまいちスリリングではない、
緊張するところ、緩むところの緩急が生理的リズムになっていない、
台詞が、いいところと、イマイチなところがある、
無言で進めた方が面白い場面を、台詞で進行させている、
動機が分かりにくい人物がいる(たいていそこはご都合になっていて、コンフリクトがない)、
主観と客観がときに入り乱れて一定せず混乱する、
ストーリーのブロック分けが明快ではない、
山場がイマイチ乗れない(危険や危機が分からない)、
段取りに無駄があり、最適化されていない(最短手順を知っていてのわざと無駄でもない)、
もりさがる、
要素がたいてい多い(要素が少ないときは分かるから)、
どや顔で書いた部分が、案外どやでもない、
などなどである。
これは、一端客観的にならない限り、気がつかないことである。
客観的になることは難しい(これについては以前書いた)。
他人の作品として見るのは不可能だ。
寝かせる(二週間、一ヶ月、三ヶ月、半年)のもいい。
その最適な期間とは、過去の俺が書いたなあこんなこと、
と思えるぐらい、今は違うことを考えている、というぐらい離れた期間である。
(寝かせているときに、思いついたメモはしてはいけない。
一切見ない。一切考えない。
でも、考えないことは禅僧にすら難しいから、
別の仕事で頭を一杯にするのがよい)
普段、他人の作品を正しく批評することは、
とても重要である。
脚本の要素に分解し、再び組み立てる過程を頭のなかでやる、
イメージトレーニングになる。
イマイチなところを指摘し、
それがどうであれば良かったかを考えることは、
批判ではなく創造的批評だ。
それが本編より良ければ、自分の批評力、筆力を確信できる。
(マトリックス2と3に僕は異常に不満を持っていて、
だからまるごとプロットリライトまでしてしまった。
作品置き場においてある。
中二で、Zガンダムをリアルタイムで見て、非常に不満だった。
あのときの俺は、まだリライト力がなかった。
プロになって、風魔をリライトする光栄に浴するとは思わなかった。
風魔のつくりかたにそれは詳しいが、僕の仕事は、
いいところをなるべく残し、破綻している綻びを、丁寧に繕うことだ)
その批評力、改編力を、
第一稿に生かすのが、リライトの最初の仕事だ。
いいところとダメなところを、
うまく切り分けて、ダメなところをどう改善するかを考えるのだ。
リライトにコツがあるとしたら、
批評力と改編力、自分の作品ではないと思うこと、
そして、理想の構造、ありうべき最終形を想像する力だと思う。
ときに半分以上新しく書くかも知れない。
数年前に書いたものは40稿を越えた。
(途中で主人公を逆にした)
「ロッキー」の最終稿には、10日で書いた第一稿にあったものは
1割も残っていなかったという。
僕が脚本を油絵にたとえるのは、
重ね塗りをしていく過程に似ているからだ。
映画は水彩画のように、気合いやセンスでいける分量ではない。
緻密さと大胆さと計画力の必要なものだ。
第一稿では、木炭デッサンですらなく、
パーツのクロッキーやスケッチに過ぎない。
しかし、何を書こうとしたか、という初期衝動だけは一人前だ。
脚本を志す人のなかで、
この第一稿にたどり着ける人すら希である。
脱落率の高さは、司法試験並みではないだろうか。
「おしまい」まで書ける人は、滅多にいない。
それでもなお、第一稿は酷いということは覚えていたほうがよい。
しかし、酷いものだと知っておくと、
余計な落ち込みを回避できる。
ここからどう良くしていくかを、批評するだけでよい。
そこからが、ようやく作品完成への旅のはじまりだ。
(ベテランの第一稿に破綻がないのは、
それを何度も何度も何度もやって、転ばぬ先の杖が上手くなったからだ。
書く前に使う時間が、新人と全然違う。
出来たものを直すのではなく、出来る前に出来ている。
「出来た」と思って人は書き出すのだが、「出来た」の基準が、新人より遥かに高い)
2014年03月08日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック