と、言われるらしい。
目に見えるものは、目に見えないたくさんのものに支えられている。
脚本も同じだ。
第一稿で終わりだという勘違いは、
木を見て根がないと思い込むようなものだ。
出来上がったものには、その身の丈以上の、
見えないものがある。
そのつもりで、何度も書き直して完成度をあげよう。
花が咲くには、それ以上の深さが、見えない地下にのびている必要がある。
それが、花が揺るがない理由だ。
リライトで起こる問題は、
問題が多岐にわたることだ。
自分のやりたいことが何かもきちんと分かっていないこと、
この作品の何がよいか、作者にもプロデューサーにもその時々に読む読者にも、
意見がバラバラなことだ。
プロの現場では、あるものにNGが出て書き直すことのほうが多く、
純粋に内容だけでリライトすることは希である。
予算、ロケ地、人物の入れ替え、台詞、役者の都合、
なとが主なリライト要因だが、その時に本質を変えるリライトにすることはあまりない。
本質を変えることは、以下に述べるように、根本からの大手術だ。
書き直しを要求する人ほど、ちょっと変えれば大丈夫、と思い込んでいる。
ちょっとの書き直しが本質を変えてしまうことがあることを知らない人は、
プロでも沢山いる。
その時に基準となるのは、この作品のコンセプトとは何か、
ということだ。
これに従うなら本質を変えずに済む。
が、これに反することになるなら、本質のリライトが必要になる。
この作品のコンセプトは何か、
に毎回立ち戻るのがよい。
(ナプキンライティングメソッドは、こういうときに役に立つ)
これを最初につくって書き出すこともあるし、
出来上がってから書くときもある。
当初につくっていたコンセプトと、
出来上がったコンセプトが違うときもある。
最初につくっていたコンセプトより、
出来上がったもののコンセプトがよいものになっていたとき、
混乱が生まれやすい。
そのような時は二種類のコンセプトを書き出して、
純粋にどちらがよいか、判断するべきである。
前者がよくて後者がそれに追いついていないなら、
頑張ればよい。
(ただ、予算を知らない人がコンセプトを書いていたりすると、
現場はそれに全て対応せざるを得ず、大赤字ということもある)
後者がよいときには、それを採用すればよい筈なのだが、
日本の産業構造がそれを阻むときがある。
アホな人が上にいるとき、出来上がったものの良さを受け入れることが出来ず、
前のに戻してくれ(違うものが出来た)、ということがある。
これが、よい脚本が世にでにくい根本だ。
アホな人の考えたコンセプトより、脚本家がよくしたとしても、
それは却下される。
映画では、企画と名のつく人が、最初にコンセプトをつくる。
企画にはプロデューサーが中心となり、ときに監督も入るが、
製作委員会や役者事務所も入る。
これらの間で先にコンセプトを決めてしまい、金とスケジュールを組む。
つまり、事業計画を立てる。
その後脚本家に発注される。
この集団がアホだったとき、
どんなに面白い脚本を持っていってもダメ出しされる。
最初に決めたことと違う、と。
僕は、この構造が映画をダメにしていると思っている。
問題は、「よい」を何にするか、
答えがひとつではないことだ。
この作品のよさとは何か、
それを突き詰めて、ひとつに絞らない限り、
リライトは、無限にやらなければならない。
(そして脚本家は疲弊する。
某映画で、アホな人がヘッドだったため、脚本家が自殺した例がある。
事実関係を確認していない為名を明かすことはやめるが、
業界でも評判の悪いアホである。ちなみにその映画は大コケし、
広告代理店の何人かの首が飛んだ)
脚本家の提案したよさが理解されない場合、
なんでわからへんねんアホども!と降りることのほうが、
本当は良心的な筈だ。
しかしアホな人たちほど、あいつは逆らった、勝手なことをする、
と悪い噂を流し、二度と仕事を頼まない。
歴史的珍品、ガッチャマンの失敗の裏には、
アホなヘッドと、何でも言うとおりに書き直す脚本家と、
詰まらんと降りた良心的なスタッフがいることだろう。
リライトの基準は、
今あるもののよさは何で、
目指すべきよさは何で、
足りないものは何で、どこでどうするか、
を決めることだ。
そこには、的確な批評眼が必要だ。
正しい批評ほど、難しいものはない。
主観の感想と、客観の批評は違う。
しかし映画とは、心の深い主観で見るものである。
深い主観を、客観的に見ることが出来ない者は、
批評する資格はない。
主観ではそう感じるがそれは少数派であり、
多数派はこう感じる、という感覚のない者は、
批評する資格はない。
誰かの発言が、正しい、妥当な批評であるかを、
判断することはとても難しい。
ダメな人ほど他人の意見を聞く。
自信のある人ほど主張する。
妥当かどうかは、自信と関係ない。
だから、複数の人間で作品を批評すると、
バラバラの方向性になる。
こう直すのがよいのでは、というリライト案が出たら、
現状をどうだと認識していて、
理想をどうすべきと思っているかを、
必ず明らかにしたほうがよい。
現状認識が間違っている可能性もあるし、
その直しよりも更によい直しがある可能性を捨てることになるからだ。
それには、扱っている主題を、
どれだけ取材したか、ということが重要になる。
「一般的にはこのようになっている」「普通こうする」
というのは日本人のひとつの基準だ。
その通りにしてもよいし、
そうでない特殊な過程や結論を描く(たいていの文学はこちら)なら、
その基準から比べて、どう違うか、
基準からどう誘導していくか、
という距離感の調整が必要である。
(この為にバランシングキャラクターと言って、ごく常識の感覚を持っている人物を出して、
誘導することもある。
幽霊の話で、幽霊など信じない常識的だが嫌みな教頭先生がいて、
その座ろうとする椅子を幽霊が引いて、教頭がひっくり返り、目を白黒させる痛快な場面は、
教頭というバランシングキャラクターが効いている)
これらの下調べや議論や数々の書き直しは、
最終稿には、まったくなかったかのように見える。
最初からその形で自然に生まれたかのように見える。
逆に、手術や接ぎ木の痕が見えてはいけない。
物語を楽しむノイズになる。
(「ゴッドハンド輝」という漫画で、無縫という、
手術痕が残らない最高峰の境地が出てくる。
リライトの理想である)
物語を楽しむことに、何のノイズもあってはならない。
それらは、表からは見えない地下にいる。
それが地上に花を咲かせる。
2014年03月11日
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