2014年03月10日

デジタルは人を幸せにしない:デジタルの絵は、一時的

「キックアス2:ジャスティス・フォーエバー」をようやく見た。
脚本的には素晴らしくよく、前作に匹敵する。
(ラスト2シーンは、たまらん)
が、監督の交代が惜しい。前作ほどの上がり方がなかった。

とくに気になったのは、デジタル撮影だった。
デジタルの絵は、「一時的な」気がした。


(以下、ネタバレこみで話します)一時的、というのはなんだろう、
いつでもアンドゥ出来る感じ、
という感覚かなあ。

対比的に、フィルムの絵は、
定着した感覚がある。
化学反応した銀塩、という知識とは関係なく、
既に定まった絵、既に定まった評価、
既に定まった解釈を感じる。

それに比べ、デジタルの絵は、
仮にこうしてみた絵(直そうと思えばいつでも直せる)、
今現在進行形であるが、ちょっと前に戻れそうな感じを
受けるのだ。

父の死が、なんだか嘘臭い。
生き返りそうな気がする。

物語とは二度と元に戻らない、時の流れを描くものである。
それは、アナログだったから意味があったのかも知れない。

デジタルの絵は、一時的だ。
いつでもやり直せそうな感じで、
取り返しがつかない感覚の絵ではない。
現在進行形のドキュメントの匂いはするが、
全てが一時的に揃えたもので、
定着した何か、失われた何か、取り返しのつかない何かが、
写っている感じがしない。

デジタルの絵だと、
父が死んだあとに家に帰っても、
どこかにいそうな気がする。
フィルムの絵だと、
今にもいそうなのに、二度と会うことは出来ない気がする。

その差が、物語の情感に影響している気がした。

たとえば、ビッグダディの写真の前に、
マグに入ったマシュマロを供える
(もちろん、マシュマロ入りココアが飲めなかった1の直結だ)
カットも、デジタルの絵だから、一時的に供えているだけだ、
という感じがした。
定着した習慣、定着した思い、定着した死という認識、
ではない気がした。
なんだろう、表面上は合っているのに、
あまりにも一時的に供えているように見えたので、
ビッグダディは実は生きている話なのではないか、
と邪推したほどだ。
しばらく考え、フィルムで撮っていないせいだと思った。

だから、キックアスとヒットガールの別れが、
全然別れじゃない気がした。
いつでも会える、一時的に別れる感じ。
これがフィルムなら、永遠の別れかも知れない、
という定着した思いを描くことが出来る。
ファーストキスの台詞は、物凄く効くだろう。
デジタルの絵が、それをも、軽いキス(なんなら嘘かもしれない)に
してみせたような気がしている。

定着していない、一時的なデジタルの絵は、
芝居やテーマや解釈すら、定着せず、一時的な気がする。
だから、映画を観た気がせず、
一時的な記録を見ただけのような気がする。
ここからテーマを抽出して、本格的にやりますので、
今とりあえずこの仮のバージョンを見といてください、
と言われた気がする。完成品じゃない気がする。


シナリオは悪くない。
感動がイマイチなのは、デジタルの絵のせいが、半分ぐらいあると思う。
(もう半分は、前作にあった小気味よい個性的な演出だ)
Xメンなんか撮ってるからだよちくしょう。
posted by おおおかとしひこ at 02:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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