今日若い人と話してて、そういうのを知らないのか、
と思ったのでかいてみる。
絵には、ふたつしかない。
ダッチアングル(チャイニーズアングルとも)か、
そうでないかだ。
ダッチアングルとは、カメラを傾けて撮ることだ。
(ダッチロールのダッチ。オランダは、よほど野蛮なイメージらしい。
チャイニーズ、というのは、香港映画などで多用されたからだ)
普通、絵を撮るときは、水平線に合わせてカメラを水平に置く。
三脚は何のためにあるかというと、
水平でない坂道や岩場にカメラを置いた時でも、
それぞれの脚の長さを調整して、水平線にカメラが平行にするためだ。
(レベルを取る、水平を取る、などという。三脚には簡易的にレベルを取るために、
気泡が入ったものがついている。気泡が真上に来ればレベルが取れているという証拠だ。
プロ用の三脚は、さらに便利なオカマと呼ばれる半球形のマウントがついている)
我々には重力の感覚があって、それを素直に表現するためには、
絵の中では、重力方向、すなわち垂直軸と画面の垂直軸をあわせる。
建築物など、人のいる場所では、水平と垂直が基準である。
とくに屋内シーンでは、レベルが取れていないと、建築物がかたむいてみえる。
この、レベルをわざと取らずに、水平線を斜めにしたものがダッチアングルだ。
カメラを右に傾けるか左に傾けるか、どれぐらい傾けるかは、
カメラマンや監督のセンスによる。
(原則は、対角線に水平線が近いようにする)
アクションの場面では、ダッチアングルは躍動感や迫力に寄与する。
(迫力のある構図は、たいてい水平線が斜めになっているものだ)
人間ドラマの場面では、ダッチアングルは不安や煽動に寄与する。
脚本論的にいえば、
物語の場面(またはカット単位)には、
安定な場面と不安定な場面がある、ということだ。
ずっと不安定では飽きてしまう。
(ジェットコースタームービーですら、休憩はある)
ずっと安定でも飽きてしまう。
(何も起こらない映画になってしまう。
逆に小津は、ダッチアングルを嫌い、必ず水平で撮った。
それは安定の中に不安定の文脈を異物としてほうりこむ演出技法だ。
小津の描く小さなドラマは、日常を傾けるほどではない)
どれぐらい不安定か、どれくらい安定かは、
あなたの書く文脈によって決まる。
読解力のある監督なら、その不安定度合いによって、ダッチの角度さえ変えてくる筈だ。
(もう古い演出だが、ガーンとショックを受けるとき、
カメラをぐるぐる回す手法があった。これも、ダッチアングルの応用である)
技法が先にあるのではない。
文脈が先にある。
文脈のない所に技法だけ足すのは、装飾過多である。(堤幸彦が代表的)
文脈があれば、技法はなくてもよい。
人は見た目に左右されやすいから、見た目の技法に目が眩む。
問題は文脈だ。
つまり、物語とは、安定と不安定を、リズムよく行き来することだ。
(そのリズムは、映画の種類で異なるだろう)
2014年03月10日
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