アクションは、動きを尊ぶムービーの基本だ。
そしてコンフリクトとは、人と人の間のことだ。
つまり、映画とは、「人と人の間のアクション」で表現される。
(アクションとは、殴る蹴るやカーチェイスのような派手なものだけでなく、
動詞で表せる全てを含む)
それには、規模がある。
あらゆる表情は、アクションだ。
あらゆる仕草は、アクションだ。
あらゆる言葉は、アクションだ。
あらゆるボディーランゲージは、アクションだ。
あらゆる直接接触行為は、アクションだ。
(肩を叩く、握手やキスなどから殴る蹴る、関節技をかけるまで)
あらゆる物を介した間接的接触は、アクションだ。
(乾杯、煙草に火をつける、何かを渡す、ナイフで刺す、電話も含む)
あらゆる飛び道具による接触は、アクションだ。
あらゆる身体拡張によるアクションは、アクションである。
自転車、馬、馬車、バイク、車、バス、トレーラー、
戦車、列車、ロボット、ヘリ、飛行機、旅客機、戦艦、潜水艦、
軍隊、宇宙船などがよく使われる。
これらは、規模がある。
占める空間の大きさを、段々と大きくしてみた。
絵面上の大きさが、
大きいほどダイナミックに見える。
車とヘリのチェイスなどは、アメリカ映画ではしょっちゅうだ。
そうでなくとも、
人と人の間のアクションは、
絵面がダイナミックであればあるほど人目を惹く。
それには、ある程度の大きさが必要である。
それを、スケールが大きいという。
スケールの大きさは、問題の物理的な大きさではなく、
アクションのダイナミックさによるのだ。
一方、スケールは小さいが、
深い人間的ドラマでは、
アクションは小さくとも、
それが深い意味を持つだろう。
二人の乾杯が深い意味を持てば、
アクションのスケールは小さくとも、
ダイナミックなアクションに負けないスケールを持つことになる。
我々日本人のつくる映画は、
ダイナミックなアクションを目指すことは予算的に難しい。
であるなら、深さにおいて、アメリカ映画を凌駕しなければならない。
深さ×ダイナミックさ=スケールになるとしたら、
深さにおいて、スケールを大きくしない限り、
ハリウッドアクションには太刀打ち出来ない筈である。
(幸い、多くのハリウッドアクションは浅い)
あなたの書く物語は、
その小さなアクションが、
車とヘリのチェイスぐらいスケールの大きなことを、
深さにおいて表現しているだろうか。
していないなら、それはスケールの小さな、
ちんけな物語だ。
時々僕が絶賛する小さな芝居に、
「君が僕を見つけた日」のラストシーン、
「夫の服を丁寧に畳む」がある。
アクションの空間じたいは、
手元の四方1メートルもない空間のアクションだ。
物語を見ればわかるが、その意味するところは、
車とヘリのチェイスよりスケールが大きいと思う。
こんなことを書いたのも、
今日見た若人のCM企画が、
化粧を整えるという、小さな一人芝居がキモになっていたからだ。
アクションは20センチ四方の狭い空間だ。
それで象徴される意味が、恋人との待ち合わせという、
あまりにも平凡過ぎるネタでびっくりした。
ちいせえ。
そんなものが、車とヘリのチェイスのスケールに、
勝てる訳がない。
短いから出来ないって?
「夏草や兵どもが夢のあと」と17文字で物凄いスケールを描ける人もいるぜ?
アクションは、映像で物語ることの、
致命的な(見たまんまの)スケール感である。
(空撮の絵などは、問答無用でスケールがデカイ)
文脈や意味が、
見た目は小さなスケールのアクションを、
物凄く大きくすることが出来る。
その小ささと大きさの差分が、物語の力である。
「キックアス2」では、
マシュマロ入りのマグカップを供えるという、
たった10センチ四方のアクションで、
僕は不意に泣いてしまった。
ハリウッドの小道具の使い方の、凄いところだと思った。
「ゴースト/ニューヨークの幻」の第二ターニングポイント、
扉にくっつけたコインを動かすことで、
彼女に幽霊の存在を証明するシーンがある。
芝居のスケールは、それこそ5センチだ。
しかし、ここで皆号泣するのだ。
コインが動くだけだぜ?車とヘリのチェイスのスケールと見比べろよ。
否。それ以上の深さが、物語によって加えられているのだ。
小道具とは、このように使う。
アクションの規模が、スケールの規模に必ずしも一致しないようにするのだ。
化粧直しが彼氏との待ち合わせの象徴?
スケールが小さすぎてへどが出るぜ。
2014年03月11日
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