2014年03月11日

枠が先か、中身が先か

映画産業がある程度フォーマット化してしまうことは、
工業製品のように、卵を産み続ける鳥舎のように、
安定した生産を見込めることである。

しかし容易に想像つく通り、パターンは死を招く。
創作とは、新しいことをつくることだ。

だが今の映画は、シネコンでかけられ、
テレビ局の投資を受けられる映画という、
ひとつの枠に収束しようとしているように見える。

その枠内で勝負すべきか、それ以外を開拓する方法はないのか。
そもそも映画は、枠が先か中身が先か。


昭和のころは、映画はもっと自由だった気がする。
勿論とんでもないハズレもあったし、
だから二本立てなんてシステムもあった。

この頃は、中身が先だったと思う。
そういう中身をつくりたいなら、
枠からつくるしかないからだ。

枠とは、映画会社だったり、
新しい編集室だったり、撮影手法だったり、
新しい映画館だったり、新しい宣伝だったりした。
万博映像とか70ミリとか、テレビスペシャルとか、
特撮ジャリ番(ウルトラマンや仮面ライダーは、
ジャリ=子供用の番組を新たな冒険枠にした野心家たちの傑作だ)
など、新しい映像の形と一緒につくっていった。

しかしそれは膨大なリスクがあり、
その殆どは淘汰されたかも知れない。
悪貨に駆逐された、良貨をつくっていた会社もあっただろう。
(70年代のタツノコプロや円谷プロは、もうない)

では、枠に合わせて生き残るべきか。
その枠に合わせて、中身を矮小にするべきか。
それは負の拡大再生産であり、
劣化コピーの繰り返しになり、
悪貨にいずれ飲み込まれるだろう。
(既にごり押し人事と、一般人にすら揶揄される映画が増えた)

かといって、ネットの発達によって新たな出口を見いだしたかのようだった、
ネットシネマの可能性は、有料化がうまく行っていない。
(安いのはやっぱり中身も安い→負のループ中)

映画館、放送局、ネットシネマぐらいしか、
いまのところ、映像の出口はない。

しかし、中身を考える我々は、
枠に合わせて考えてはいけないと思う。
(勿論小さな枠に合わせて、小金を稼ぐ職人芸も、
生きていく為には必要だけど)
いい中身の為に、枠をつくりかえさせるぐらいの、
中身を考えるべきである。
それは、枠を担う人が、どれほど中身に惚れ込んでくれるか、
ということと等しい。

今の枠では出来そうにない、新しい、面白い中身を、
我々は先につくろう。
おはなしは、枠の為にあるのではない。
面白い話が、そのための枠で流れるだけである。
枠は先にない。中身が先にある。

枠(たとえばターゲットはこれこれで、予算はこれだけ、
リターンはこれくらい、このような中身の制限あり、
事務所や関係スタッフはこれを使う、
宣伝の仕方はこのパターンが用意出来るが、
それ以外は金がかかるので本編から引く、
最終チェックは製作委員会の複数人が時間差でする、
スクリーンで二週間公開延長なし、DVDはツタヤのみ、とか、
あるいはオンエア枠は既に決まっているから、
そこに合わせて中身をつくる)
の為に働くな。

このいい中身の為に、このような枠を用意しました、
と言われて周りが動くぐらいの、面白い中身をつくれ。

それには、だらだらとした企画書は必要ない。
キャラの立った面白さがあればよい。
(登場人物のキャラが立つことではなく、
「面白さ」がキャラが立っている、ということ)


枠は先にない。中身が先だ。
ストーリーテリングの一番原始的な形は、
たき火に集まって話す話だ。そこでバカウケすることだ。
それ以上の枠なんてなかった。
posted by おおおかとしひこ at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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