映画というものは、
複数の人物が入り乱れるお話である。
それぞれの人物は動機をそれぞれにもち、
具体的目標や、抽象的願望がある。
すなわち、複数のコンフリクトが同時進行する。
入り乱れるのはとくに中盤、ACT 2である。
それらを、主線、副線、補助線という、
デッサン的な言葉で、とらえてみよう。
(伏線、ではないですよ。今回は伏線の話はないです)
主線は、いうまでもなく、メインコンフリクトだ。
主人公の目線で、我々は物語を見る。
(たとえオムニバスや群像劇でも、ベースとなる中心人物がいる)
主人公の目的を遂行する行動の一連で、
さまざまな障害が生まれ、主人公はそれらを克服したり、
回避したりする。
敵がいたりして、それを倒すことが最終目的になることが多い。
メインコンフリクトは、第一ターニングポイント、
第二ターニングポイントで、センタークエスチョンの形で提示される。
これが解決すれば、映画はおわりだ。
主人公の目的は果たされ、それが主人公になんの意味があったかが定着し、
テーマが定着する。
副線という言葉はデッサンにはないが、
ものの形を規定する主線に対して、
量感や質感を描くための線と考えよう。
副線とは、サブプロットのことである。
主人公に複数のサブプロットが進行していることもあるし、
(仕事とプライベート、二人の女が好き、表の顔と裏の顔、
ある問題とある問題を抱えている、など)
主人公が絡まない、他の登場人物同士のサブプロットもある。
これは主線に重なり合うように同時進行して影響を与えたり、
ときに主線の和音になったり対比になるような存在だ。
主線一本で描けるものは、小さな物語である。
二時間を楽しむ物語では、
主線の他に副線が豊かでないと物足りない。
そして重要なことは、その副線ですら、
三幕構造を持つということだ。
サブプロットとはいえ、
それはひとつのストーリーラインである。
従って、問題、途中、解決の構造を持っている。
明確な第一、第二ターニングポイントが必ずあるわけではないが、
発端と終息は、必ずある。
途中は、小さなサブプロットなら、
他のストーリーラインに紛れて描かれない場合もある。
大きなサブプロットならば、
途中は何段階ものターニングポイントを持つ、
大きな構造のときもある。
大きな副線は、必ず主線と交わる。
つまり、どちらかがどちらかの原因になったりする。
(それがどちらかのターニングポイントである)
補助線は、明確に現れないサブプロットだが、
例えばある人物の存在で、そっち方面に話がいくことはない、
のような、線の形を規制するものをいう。
物語の行方は、主線副線ともに、
どちらへ転んでいくか予測がつかないが、
補助線があれば、そこの範囲内で話が進むという予測が成り立つ。
例えば「明朝までに戻れ」と締め切りを規定すれば、
その時までの話である、という補助線になる。
映画の中の同時進行するプロットを、
これらの考え方で整理してみよう。
主線がいつ途切れて、副線に切り替わり、
それがいつ主線に話が戻ってきているか、などをチェックしよう。
(副線のほうが面白くなって、主線を忘れる、ということがよくある)
話がとりとめもなくなったら、補助線的な枷をつくり、
その範囲内で話が進むようにしよう。
問題は、何が主線であるべきか、
ということだ。
複数の同時進行するコンフリクトのうち、
何故主人公がこの物語の主人公なのか、
あなたは今書いている物語を例に、答えられるだろうか。
主人公っぽいから、とか、
思いついたから、では話にならない。
主人公は、主人公である明確な理由を持たなければならない。
古いゲームの話だが、「ウィザードリィ」というRPGがあった。
地下10階に広がる魔王ワードナのダンジョンを、
人間たちがパーティーを組み、モンスターを倒していくゲームである。
(ドラクエやFFは、もともとこのシステムのパクり)
当然地下10階に近づくほど強力なモンスターがいる。
最下層にいる魔王を倒せば終わりだ。
「ウィザードリィ2」が出たとき、僕は驚愕した。
なんと舞台は同じ地下10階のダンジョン、
主役は魔王ワードナ。プレイヤーはワードナとなって、
地下10階から地上を目指し進攻するゲームなのである。
この二つのゲームは、
同じ物語を逆の視点から見ている。
さて、どちらが主役と言えるか。
善が主役とは限らない。
ピカレスクロマンのように、悪が主人公の話もある。
つまり、主人公の資格とは何か。
僕は、テーマが主役を決めると思う。
ウィザードリィでは、テーマが魔王の封印なら人間が主役だが、
テーマが魔王の復讐なら魔王が主役だ。
「風魔の小次郎」には、様々な登場人物、サブプロットがある。
テーマが「絆」だとしたら、
風魔の誰もが主役になりえる。とくに項羽小龍か。
しかし、テーマは「新しい形の忍びとなること」だ。
その点で、小次郎が主役なのだ。
旧来の忍びと、現状と、小次郎自身の成長が、
新しい形の忍びを描くのだ。
旧来の忍び、すなわち竜魔や劉鵬が副線となり、
現状すなわち夜叉一族たちも副線となる。
補助線は二人の君主、すなわち姫子と夜叉姫であり、
学校と忍びという世界観であり、
「人知れず戦う忍び同士」という世界観である。
展開はこの範囲内で行う。
(ミッドポイントで、聖剣という別軸の補助線が加わる)
これらの集団の物語全体で、
壬生や武蔵を主役にすることも出来る。
竜魔、姫子を主役にすることも出来る。
しかし、この物語は、小次郎を主役にした。
何故か。
全ての人物の背負うテーマで、
小次郎のもつ「新しい形の忍び」というテーマが、
一番面白いからだ。
壬生が主人公になるなら、
「生まれを実力で凌駕しようとして、誤った行動を取ること」
だろうし、
武蔵が主人公なら、
「妹の為に己を殺して、忌むべき力を使う孤独」
だろうし、
竜魔なら、
「リーダーとして若手をまとめ育てること」だろうし、
姫子なら、
「恋を我慢しながら、総長代理という自分の手に余るほどの理想を成し遂げること」
だろう。
誰が主役になったとしても、この物語世界ではありえる。
それぞれの持っているテーマの中で、
小次郎が一番魅力的なテーマだから、
主人公に選ばれたのだ。
(実際的には、原作にここまで各キャラクターの人生のテーマが内蔵されてはいない。
僕が創作したのである。コンフリクトとサブプロットを、
原作の世界ベースに埋め込んだのである)
かのドラマは、誰もが魅力的に見える。
それは、誰もが興味深いドラマを背負っているからだ。
そのように上手く改変したのである。
(これはキャラクターという静止画の魅力ではなく、
動的なサブプロットの魅力だ。即ち、役者の魅力ではない。
役者の前に、既にキャラクターがドラマを背負っているから、
風魔は面白いのだ。これが魅力的な役者をただ持ってきただけの、
安直なつくりのイケメンドラマとの、最大の差である)
全ての副線は魅力的でなければならない。
そして、一際その中で、主線が魅力的でなければならない。
そして、副線は、主線と影響しあうように、
全体が組まれなければならない。
副線は、主線の裏の問題であったり、部分問題であったり、
対比的であったりなどの、和音であると、
主と副の関係が美しい。
ウィザードリィでは、人間と魔王、どちらも主人公になった。
つまり、主と副ではなく、対等だと言うことだ。
これは、「いわゆる正義と悪は、立場を変えてみれば、逆なのだ」
という、正義相対主義がテーマだということを暗示している。
(ゲームに物語的テーマがあるかどうかは、微妙なところではあるが)
あなたは、物語を書こうとして構想する。
そして、大体の全体を描く。
デッサンだ。
何本も線を書いては消し、
その中から、主線を見つけるだろう。
それに応じて副線を引き、補助線も使うだろう。
たった一本の強い線を見つけるのが、デッサンだ。
主線にふさわしいテーマを見つけることが、一番難しい。
そして、副線で主線を補強するのだ。
あなたの書く物語の、主線にふさわしいものは、何か。
それを見つけるデッサンこそが、構想である。
(以前にも書いたが、夫婦の話で、物語は同じだが、
主役を改稿途中で逆にしたことがある。
その方が魅力的なテーマを描けると思ったからだ)
主人公は、結果的に、
最も葛藤が大きく、最も動き、最も重大な決断をし、
最も大きなコンフリクトのキーマンとなり、
最も内面が描かれ、最も成長するだろう。
2014年03月12日
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