2014年03月12日

デジタルは人を幸せにしない:永久保存の価値

デジタルデータは、保存するコストは、
最小化されたといってもいいぐらいになった。
劣化しない、いくらでもコピー可能なデジタルは、
永久保存という夢を、人類にもたらしたように思える。

それは、人類を幸せにしただろうか。


カウンターの日本料理屋では、白木のテーブルが多い、
という話はご存知だろうか。

白木ということは、汚れたらおしまいだ。
何かをこぼしたりしたらすぐに拭かないと、白木にしみ込んでしまう。
すぐ拭かねばならないという手間をかける、
白木のテーブルがなぜよいのか。

それは、白木であるために手間をかけている、という誇りの為である。
何十年も使った白木のテーブルが、いまだに白いのは、
それだけの間、手間をかけてきた、という料理屋の誇りなのだ。

テーブルひとつにそれだけ目をかけていることは、
料理や酒やその他に、目をかけていることのあらわれだ、
と日本料理では伝統的に考えるのだ。

龍安寺の石庭も同じである。
あの石庭は、毎日掃き清めないと、あの模様は維持出来ない。
あの石庭が存在し続けるのは、手間を毎日かけていることの証だ。


この伝統的考え方は、保管コストの合理化とは真逆の考え方だ。

「合理化」された日本料理は、黒いテーブルや、
こぼしても大丈夫なテフロンで出来ている筈だ。
「合理化」された石庭は、存在しない。コンクリをその形に盛って固めたものだろう。

それが、なぜ寂しく思えるのか。


人の手間こそが価値だからだ。

そこまでコストをかけてまで維持したいものが、
ほんとうに価値のあるものだからだ。

そこまでコストをかけてまで維持したい人たちが、
その価値を継いで、高めていくのである。


ルーブル美術館にあるモナリザは、
きっと温度や湿度管理や警備員で、莫大な保管コストがかかっている筈だ。
それでもそのコストをかける価値を、見いだしているからかけるのである。


デジタル原版の保管コストは、ほとんど無料である。
維持費などかからない。
数年に一度、複数台のHDDにコピーしていくだけだ。
ひどいものになればブルーレイなどのディスク原版に落としておしまいかも知れない。

それは、その程度の価値しか持たれていないことと、
無意識下でつながっている。


保管コストがゼロになることは、
永久保存の夢を現実にした。
しかし、そこで生まれたのは、
なんでもデータとしてとっておく悪癖だ。
重要なことと、重要でないことを分けて考えず、
アーカイブ化もすすめず、そのまま全部取っておく考え方だ。
(画像の整理を思い出すと良い)
アナログのアルバムがあったころは、
そこにきちんと整理して保存した筈だ。
そうしないと、写真が劣化するからだ。
それだけ、昔の写真には価値があった。
手間という保管コストをかける価値があった。


永久保存が簡単になると、
人は、価値判断をしなくなる。

何が価値があるか、判断を停止する。
自分の責任で、捨てるものと置いておくものを決められなくなる。


毎日毎日みがかれる白木のテーブルは、
今日も沢山の料理がのせられ、
沢山のこぼしがあり、沢山の拭き取りがあるだろう。
そうやってでも、白木のテーブルは維持されて、価値をもつ。
価値を維持しようとする人がいる限り、そのテーブルは永久保存される。
(自由が丘のトンカツ屋「とんき」(目黒の支店)がかつてあったが、閉店した。
昭和40年代のものと思われる白木のテーブルが、染み一つなく現存していた)


永久保存の夢の現実化は、人類を幸せにしたか。
否である。
posted by おおおかとしひこ at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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