デジタルデータは、保存するコストは、
最小化されたといってもいいぐらいになった。
劣化しない、いくらでもコピー可能なデジタルは、
永久保存という夢を、人類にもたらしたように思える。
それは、人類を幸せにしただろうか。
カウンターの日本料理屋では、白木のテーブルが多い、
という話はご存知だろうか。
白木ということは、汚れたらおしまいだ。
何かをこぼしたりしたらすぐに拭かないと、白木にしみ込んでしまう。
すぐ拭かねばならないという手間をかける、
白木のテーブルがなぜよいのか。
それは、白木であるために手間をかけている、という誇りの為である。
何十年も使った白木のテーブルが、いまだに白いのは、
それだけの間、手間をかけてきた、という料理屋の誇りなのだ。
テーブルひとつにそれだけ目をかけていることは、
料理や酒やその他に、目をかけていることのあらわれだ、
と日本料理では伝統的に考えるのだ。
龍安寺の石庭も同じである。
あの石庭は、毎日掃き清めないと、あの模様は維持出来ない。
あの石庭が存在し続けるのは、手間を毎日かけていることの証だ。
この伝統的考え方は、保管コストの合理化とは真逆の考え方だ。
「合理化」された日本料理は、黒いテーブルや、
こぼしても大丈夫なテフロンで出来ている筈だ。
「合理化」された石庭は、存在しない。コンクリをその形に盛って固めたものだろう。
それが、なぜ寂しく思えるのか。
人の手間こそが価値だからだ。
そこまでコストをかけてまで維持したいものが、
ほんとうに価値のあるものだからだ。
そこまでコストをかけてまで維持したい人たちが、
その価値を継いで、高めていくのである。
ルーブル美術館にあるモナリザは、
きっと温度や湿度管理や警備員で、莫大な保管コストがかかっている筈だ。
それでもそのコストをかける価値を、見いだしているからかけるのである。
デジタル原版の保管コストは、ほとんど無料である。
維持費などかからない。
数年に一度、複数台のHDDにコピーしていくだけだ。
ひどいものになればブルーレイなどのディスク原版に落としておしまいかも知れない。
それは、その程度の価値しか持たれていないことと、
無意識下でつながっている。
保管コストがゼロになることは、
永久保存の夢を現実にした。
しかし、そこで生まれたのは、
なんでもデータとしてとっておく悪癖だ。
重要なことと、重要でないことを分けて考えず、
アーカイブ化もすすめず、そのまま全部取っておく考え方だ。
(画像の整理を思い出すと良い)
アナログのアルバムがあったころは、
そこにきちんと整理して保存した筈だ。
そうしないと、写真が劣化するからだ。
それだけ、昔の写真には価値があった。
手間という保管コストをかける価値があった。
永久保存が簡単になると、
人は、価値判断をしなくなる。
何が価値があるか、判断を停止する。
自分の責任で、捨てるものと置いておくものを決められなくなる。
毎日毎日みがかれる白木のテーブルは、
今日も沢山の料理がのせられ、
沢山のこぼしがあり、沢山の拭き取りがあるだろう。
そうやってでも、白木のテーブルは維持されて、価値をもつ。
価値を維持しようとする人がいる限り、そのテーブルは永久保存される。
(自由が丘のトンカツ屋「とんき」(目黒の支店)がかつてあったが、閉店した。
昭和40年代のものと思われる白木のテーブルが、染み一つなく現存していた)
永久保存の夢の現実化は、人類を幸せにしたか。
否である。
2014年03月12日
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