イマイチな作品を批評するときによく使われる、
「無駄が多い」ということは、何を意味しているのか。
それは、本当に無駄なのではない。
作品のコンセプトがちゃんと立っていない、
ということを直感的に言っているのである。
凡人は、あるものを見て、そのことの話しか出来ない。
そこにない理想や想像を含めて話の出来る人は、相当レベルが高い。
(プロはみんなそうだと思っていたが、
どうやら基本能力と思うこのことすら、出来ないプロは沢山いる)
だから、あるものに対する感想しか言えない。
「このあたりが無駄な感じがする」という感想は、
そのような言い方だとまず思うとよい。
無駄、と言われた我々書き手は、
まずカットしてみる。
しかし、納得がいかず、元に戻してみる。
カットしてしまうと物足りない感じになるからだ。
その部分には存在意義がある、ということを言いたくて、
その部分をさらに複雑にしたり、
他に分割して散らしたりしてみる。
そうすると、たいてい「余計複雑になった」と言われる。
リライトには、ひんぱんにこの問題がおこる。
カットしてしまうと物足りない、という書き手の感覚は、実は合っている。
それは、カットするその部分は何かを補完しているという直感だ。
その部分を見ていては、いつまでも議論が進まない。
見るべき所は、
それがなかったとしたら物足りない、残りの部分だ。
「残りの部分だけで成立するように充実させる」のが正解なのだ。
つまり、コンセプトやログラインが、まだ究極的になっていない中途半端なのだ。
ためしに、現状のコンセプトやログラインを、他人に行ってみると良い。
たいてい、「分かるけど物足りない」「どこかで聞いた感じ」と言われる筈だ。
そのコンセプトで十分に書いたとしても、
コンセプトが物足りないから、物足りないのである。
その直感が何かを足す。
読み手にとってはコンセプトは理解できるから、
そのコンセプトにしては余計な、足した部分の存在を感じる。
だから、「無駄が多い」という感想になるのだ。
無駄をカットするのは、対症療法でしかない。
根治するためには、コンセプトやログラインを、
より豊かに、キャラが立った面白さにするべきなのだ。
それは、要素を足すことや引くこと、という物理的操作で実現出来ることもあるが、
たいての場合、より進化したり、深い部分に入っていかないと、
良くならない。
浅い考えの者は、浅いコンセプトやログラインで満足する。
「ガッチャマン」などがそうだ。
「適合者5人が侵略者とたたかい、1000万人を人質に取られたまま、ジョーを救うために頑張る」
というコンセプトの、何が面白いのか。
どこかで聞いたような構造に、腐女子ウマーポイントを乗っけただけの、
実に浅い構造だ。
だから、複雑な要素を足して、水増ししているのだ。
そこで、筋の一本通っていない、ばらばらな脚本になるのである。
面白いコンセプトとは、もっともっともっと深く考えなければ、
ブレイクスルーするような考えにたどり着くことはない。
浅い考えのもとに、それを水増しするために無駄な部分を足している、
それが詰まらない脚本の正体である。
もしあなたの脚本がそのようなことが言われたら、
削ったり複雑化したりすることを考えても無駄だ。
物理的なことはおいといて、要するに浅いと言われたのだと理解するとよい。
もっとコンセプトを煮詰めていくべきである。
コンセプトをきちんと煮詰めれば、
それ以外の遊びをやっている暇は、脚本にはない。
焦点を追いかけているだけで成立するように、コンセプトが練られているからだ。
そのような脚本には、無駄と言われる部分はないだろう。
2014年03月12日
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