2014年03月12日

作品の中に無駄がある、とはどういうことか

イマイチな作品を批評するときによく使われる、
「無駄が多い」ということは、何を意味しているのか。

それは、本当に無駄なのではない。
作品のコンセプトがちゃんと立っていない、
ということを直感的に言っているのである。


凡人は、あるものを見て、そのことの話しか出来ない。
そこにない理想や想像を含めて話の出来る人は、相当レベルが高い。
(プロはみんなそうだと思っていたが、
どうやら基本能力と思うこのことすら、出来ないプロは沢山いる)

だから、あるものに対する感想しか言えない。
「このあたりが無駄な感じがする」という感想は、
そのような言い方だとまず思うとよい。


無駄、と言われた我々書き手は、
まずカットしてみる。

しかし、納得がいかず、元に戻してみる。
カットしてしまうと物足りない感じになるからだ。

その部分には存在意義がある、ということを言いたくて、
その部分をさらに複雑にしたり、
他に分割して散らしたりしてみる。

そうすると、たいてい「余計複雑になった」と言われる。
リライトには、ひんぱんにこの問題がおこる。



カットしてしまうと物足りない、という書き手の感覚は、実は合っている。
それは、カットするその部分は何かを補完しているという直感だ。

その部分を見ていては、いつまでも議論が進まない。
見るべき所は、
それがなかったとしたら物足りない、残りの部分だ。

「残りの部分だけで成立するように充実させる」のが正解なのだ。


つまり、コンセプトやログラインが、まだ究極的になっていない中途半端なのだ。

ためしに、現状のコンセプトやログラインを、他人に行ってみると良い。
たいてい、「分かるけど物足りない」「どこかで聞いた感じ」と言われる筈だ。
そのコンセプトで十分に書いたとしても、
コンセプトが物足りないから、物足りないのである。
その直感が何かを足す。

読み手にとってはコンセプトは理解できるから、
そのコンセプトにしては余計な、足した部分の存在を感じる。
だから、「無駄が多い」という感想になるのだ。


無駄をカットするのは、対症療法でしかない。
根治するためには、コンセプトやログラインを、
より豊かに、キャラが立った面白さにするべきなのだ。

それは、要素を足すことや引くこと、という物理的操作で実現出来ることもあるが、
たいての場合、より進化したり、深い部分に入っていかないと、
良くならない。


浅い考えの者は、浅いコンセプトやログラインで満足する。
「ガッチャマン」などがそうだ。
「適合者5人が侵略者とたたかい、1000万人を人質に取られたまま、ジョーを救うために頑張る」
というコンセプトの、何が面白いのか。
どこかで聞いたような構造に、腐女子ウマーポイントを乗っけただけの、
実に浅い構造だ。
だから、複雑な要素を足して、水増ししているのだ。
そこで、筋の一本通っていない、ばらばらな脚本になるのである。

面白いコンセプトとは、もっともっともっと深く考えなければ、
ブレイクスルーするような考えにたどり着くことはない。


浅い考えのもとに、それを水増しするために無駄な部分を足している、
それが詰まらない脚本の正体である。


もしあなたの脚本がそのようなことが言われたら、
削ったり複雑化したりすることを考えても無駄だ。
物理的なことはおいといて、要するに浅いと言われたのだと理解するとよい。
もっとコンセプトを煮詰めていくべきである。


コンセプトをきちんと煮詰めれば、
それ以外の遊びをやっている暇は、脚本にはない。
焦点を追いかけているだけで成立するように、コンセプトが練られているからだ。
そのような脚本には、無駄と言われる部分はないだろう。
posted by おおおかとしひこ at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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