短篇でハッピーエンドを描くことは、とても難しい。
ハッピーエンドのためには、
問題や不幸を描き、そこからの脱出を劇的につくらねばならない。
そのへんにあるフツーの解決では安易だから、
独自の解決をしなければならない。
それが難しいから、キレのよい短編は、
バッドエンドやビターエンドが多い。
例えば「世にも奇妙な物語」を思い出して欲しい。
主人公が不条理に死んだり、破滅したり、報いを受けて終わりとか、
ハッピーエンドとは程遠いビターエンドが沢山あった。
(まとめサイトなどを見ると、
何が名作だったかという議論を沢山見ることが出来る。
「世にも」には全あらすじをまとめたサイトがあるので、検索が容易だ)
これは、実は短編向きなのだ。
物語の最初の魅力は、我々の一般常識をこわすところからである。
詰まらない、とるに足らない、あまり幸せではない、
普通の日常が、
なにかによって破壊されるから面白いのだ。
(異物論によれば、異物との出会い)
不思議な世界へトリップしてしまうこと、
謎の人に出会って悪魔の契約をすること、
誰も気づいていない秘密を知ってしまうこと、
などのよくある出だしは、
すべて「日常を壊す(あるいは出し抜く)可能性」である。
長編ならば、それが冒険の旅を経て、ハッピーエンドにつながるような、
内的問題の克服、すなわち成長というメタモルフォーゼ、
カタルシスを描くところまで描ける。
ところが短篇にはその余裕はない。
ないから、
(ダークな)誘惑におちていくことが日常を反転させること、
あるいは日常を反転させたとしてもなお平静を保つこと、
そのふたつの拮抗が主題となることがパターンだ。
うまく逃げおおせれば「あれは何だったんだろう」オチ、
誘惑のリンゴを食べてしまえば破滅オチ、
あるいは、正常だと思っていたことが反転する逆転オチなど、
そのようなパターンが、
日常、壊れた日常という、序破の、急になりえるのだ。
そのキレ度合いが、短篇に求められる。
とすれば、オチから逆算して、
どう日常を面白く壊していくかを考えればよいことになる。
短篇でハッピーエンドが難しいのは、
解決が、問題に対して急すぎるからだ。
よほど目新しい解決法を考えないと、フツーになってしまう。
だめなCMの例をあげよう。
「あー○○で困ったわ」
「そんなとき!△で解決!(以下説明)」
「やったー!」
のパターンである。
△がよっぽど面白くない限り、これは面白くない話だ。
物語の法則上、一撃で解決することが一番気持ちが良い。
だから、よいCMというのは、○○の問題に時間を割く。
そこに感情移入できることを描いたり、
日常が壊れてゆく予感をはらませる。
それを、△で一撃で解決する。皆まで言わぬ余韻を含んで終わる。
このパターン以外に、いいハッピーエンドは難しいと思う。
逆にいえば、
長編とは、問題の解決の「過程」をいかに面白おかしく、興味深く、
わくわくさせるかである。
映画とは、過程の芸術ともいえる。
短篇は、はじまりと終わりを鍛えるのに、とてもいい訓練法だ。
(手塚治虫も、「短篇16Pの読み切りをたくさんかけ」と教えたらしい。
そうやって出来たのが「ブラックジャック」である)
初心者のうちは、たくさん書くとよい。
ハッピーエンド、バッドエンド、ビターエンドを使い分けられるようになろう。
しかし、それで映画の脚本が書けるかといったら、まだまだだ。
最も難しいACT 2を、息切れせずに書くことは難しい。
「過程の芸術」をマスターすることは、短篇では不可能である。
短篇のキレとは、
「ACT 1即ACT 3」の魅力である、と逆に言えるのではないだろうか。
2014年03月14日
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