2014年03月14日

短編のキレ

短篇でハッピーエンドを描くことは、とても難しい。
ハッピーエンドのためには、
問題や不幸を描き、そこからの脱出を劇的につくらねばならない。
そのへんにあるフツーの解決では安易だから、
独自の解決をしなければならない。

それが難しいから、キレのよい短編は、
バッドエンドやビターエンドが多い。


例えば「世にも奇妙な物語」を思い出して欲しい。
主人公が不条理に死んだり、破滅したり、報いを受けて終わりとか、
ハッピーエンドとは程遠いビターエンドが沢山あった。
(まとめサイトなどを見ると、
何が名作だったかという議論を沢山見ることが出来る。
「世にも」には全あらすじをまとめたサイトがあるので、検索が容易だ)

これは、実は短編向きなのだ。


物語の最初の魅力は、我々の一般常識をこわすところからである。
詰まらない、とるに足らない、あまり幸せではない、
普通の日常が、
なにかによって破壊されるから面白いのだ。
(異物論によれば、異物との出会い)

不思議な世界へトリップしてしまうこと、
謎の人に出会って悪魔の契約をすること、
誰も気づいていない秘密を知ってしまうこと、
などのよくある出だしは、
すべて「日常を壊す(あるいは出し抜く)可能性」である。

長編ならば、それが冒険の旅を経て、ハッピーエンドにつながるような、
内的問題の克服、すなわち成長というメタモルフォーゼ、
カタルシスを描くところまで描ける。

ところが短篇にはその余裕はない。
ないから、
(ダークな)誘惑におちていくことが日常を反転させること、
あるいは日常を反転させたとしてもなお平静を保つこと、
そのふたつの拮抗が主題となることがパターンだ。

うまく逃げおおせれば「あれは何だったんだろう」オチ、
誘惑のリンゴを食べてしまえば破滅オチ、
あるいは、正常だと思っていたことが反転する逆転オチなど、
そのようなパターンが、
日常、壊れた日常という、序破の、急になりえるのだ。

そのキレ度合いが、短篇に求められる。


とすれば、オチから逆算して、
どう日常を面白く壊していくかを考えればよいことになる。



短篇でハッピーエンドが難しいのは、
解決が、問題に対して急すぎるからだ。
よほど目新しい解決法を考えないと、フツーになってしまう。

だめなCMの例をあげよう。
「あー○○で困ったわ」
「そんなとき!△で解決!(以下説明)」
「やったー!」
のパターンである。
△がよっぽど面白くない限り、これは面白くない話だ。

物語の法則上、一撃で解決することが一番気持ちが良い。

だから、よいCMというのは、○○の問題に時間を割く。
そこに感情移入できることを描いたり、
日常が壊れてゆく予感をはらませる。
それを、△で一撃で解決する。皆まで言わぬ余韻を含んで終わる。

このパターン以外に、いいハッピーエンドは難しいと思う。


逆にいえば、
長編とは、問題の解決の「過程」をいかに面白おかしく、興味深く、
わくわくさせるかである。

映画とは、過程の芸術ともいえる。



短篇は、はじまりと終わりを鍛えるのに、とてもいい訓練法だ。
(手塚治虫も、「短篇16Pの読み切りをたくさんかけ」と教えたらしい。
そうやって出来たのが「ブラックジャック」である)
初心者のうちは、たくさん書くとよい。
ハッピーエンド、バッドエンド、ビターエンドを使い分けられるようになろう。

しかし、それで映画の脚本が書けるかといったら、まだまだだ。
最も難しいACT 2を、息切れせずに書くことは難しい。
「過程の芸術」をマスターすることは、短篇では不可能である。

短篇のキレとは、
「ACT 1即ACT 3」の魅力である、と逆に言えるのではないだろうか。
posted by おおおかとしひこ at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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