2014年03月16日

フィクションの中の真実味

我々は嘘をつく仕事だ。
登場人物の基本設定、事件、解決過程、
失敗過程、解決方法、
全ては嘘である。
勿論真実に基づいた取材はするが、
たとえドキュメンタリーであっても、
演出の範囲で嘘をつく。
なのに、何故真実味があるのか。
「ほんとうに見えること」と「本当のこと」とは何が違うのか。


「分かりやすいこと」というのは、
ひとつの指標である。
いかに真実を描いたとしても、
複雑でよく読み込まねばならないものは、
映像向きではない。
だから、わかりやすくするための嘘をつく。

構造を簡単にする。
(要素を2.5にする)
対比的にする。
(陰と陽にわける。やりすぎると善人対悪人の構図になる)
対比的にするということは、
キャラ立ちをさせることだ。
キャラを被らせない。
キャラが立つような何かを足す。
嘘のエピソード、嘘の設定で、キャラづけをする。
それは、記憶に残しやすいようにだ。
(杜撰な取材だと、ここにボロが出るのは、
「明日、ママがいない」でもあった。
キャラ立ちすることは、そのキャラが持っている偏見やマイナス面も請け負うことだ)


解決の過程を単純化する。
何かの工程を省いたり、
ミックスさせることで、
解決への道程を分かりやすくする。
(ここも取材が杜撰だと、うそくせえ、と言われたりする。
童貞の書くラブストーリーは、このへんが甘い)

解決の瞬間が、絵で分かるものにする。
それが劇的であるようにする。
例えば、
数学の証明が終わり、などが解決の瞬間だとしたら、
それは地味な絵になるから、
夏祭りの花火に間に合い、花火を見ることで証明をなしたことを絵で表現する、
などの嘘をつく。
絵のカタルシスと、内容のカタルシスをシンクロさせるのが、
映像表現である。


小保方氏の「嘘」(論文コピペ、割烹着演出、酢につけるだけ)は、
全てこれらの特徴があった、映画的、劇場的な嘘だった。
まあ、分かりやすくするための手段、演出だとしよう。
もしSTAP細胞が本当だとすれば、
それらの嘘は、演出の範囲に許容されるだろう。
STAP細胞すら嘘だったら、全てが嘘になるだろう。


我々嘘の世界は、全部が全部嘘ではない。
嘘の世界がリアル世界と、唯一共有出来る真実が、ひとつだけある。

それは、主人公の動機だ。

どんなにファンタジー世界でも、
どんなに外国や知らない世界の事件でも、
主人公の動機だけは、真実でなければならない。

勿論、問題解決過程は、リアリティーがあるに越したことはない。
嘘の世界であればあるほど、本当くささは大事だ。
しかしそれは嘘の本当くささでよい。
リアルを突き詰めたら、前述の、分かりやすさに行き当たるからだ。


だから、それを貫く要素である動機に、
本当がなければ、全てが嘘になるのだ。

モテたい、という心の叫びでもよい。
愛する人を守りたい、でもいい。
俺が俺であることを示す、でもいい。

そこに嘘があってはならない。
作者が本気で思うような、
この絞り出す思いこそが、真実でなければならない。
我々観客はそこにシンクロするからこそ、
嘘の世界である筈の映画世界が、
二時間だけ現実になるのである。

かつて故・市川準が、
「最近の若者の書く人間が、漫画的になっている」
と嘆いていたという。聞いたのは20年近くになるか。
漫画的、というのは表層でとらえて、
ビジュアルや芝居の仕方、などのように最初は思った。
しかし、これは人物の考え方や見方(あることへのリアクション)なのだな、
と分かるようになってきた。
漫画的でない人間、とは、リアルな人間、
ということだ。
こういうシチュエーションや問題に出くわしたときに、
リアルな人間ならどう考えるか、どう反応して、これをどうとらえるか、
ということだ。
その根本には、動機があるから、そのような反応が出来るのだ。

モテたい、でもいい。
漫画的なリアリティーではなく、
現実世界のリアリティーがいい。
痛々しくて見てられないから、漫画的にして笑うか、
そもそもリアリティーある映画的世界の題材としてふさわしくないのだけど。


その主人公が、
本気でそれを望み、本気で求めるからこそ、
主人公が冒険の旅に出るリスクを犯すのだ。
(ちなみに、ACT 1の30分のどこかでそれを示す。
ちなみに、30分それを描く暇はなく、ワンシーンで一発で決めるのが望ましい)

我々はそれにシンクロするからこそ、
二時間席に黙って座っているのである。
(詰まらない映画の批判の第一は、なんだい?
「何がしたいのか分からない」だろう?
これは、ギャグが寒いとか、予算が安いとか、ヒロインが不細工とか、
伏線バレバレとか、お約束過ぎるとか、途中寝たとかよりも、
作品を酷いと言っている批判である)


話を小保方に戻すと、
彼女の動機が、
STAP細胞という新細胞をつくり、人類に福音をもたらすこと、
であれば、我々は嘘を許容するだろう。
有名になりたいとか、漫画的なことだったら、
我々は嘘にまみれたどこにも真実を見いだせず、
彼女を嘘つきとするだろう。


フィクションとは、嘘である。
現実逃避のために、いっとき現実を忘れて嘘の世界にひたる。
よく出来た嘘は、その世界の中で真実味のある世界を構築している。
真実味といっても、嘘である。
よく出来た嘘だなあ、というのが感想だ。
そこに真実がひとつだけ入ることによって、
我々は夢中になるのである。


僕がアイドル映画を否定するのは、
「真実」の部分を、イケテるアイドルの生成分を利用していることにある。
◯◯ちゃんカワイイとか、◯◯ちゃん頑張ってる、
という感情が、作品の真実に寄与しているタイプのジャンルだ。
それは、作品(脚本の描く世界)とは関係のない部分である。
勿論、興行がその幻影を商売にしていることは否定しない。
問題は、アイドルを売りにして、
作品のレベルがひくいことだ。
そのような作品は、◯◯という人物の動機にシンクロすることより、
◯◯役を演じている◯◯ちゃんを観察して愛でることが目的になる。
◯◯ちゃんでない、知らない役者だったとしても、
同じぐらい人物の動機にシンクロするのが、
作品の真実の力である。

風魔の話をせざるを得なくなってしまった。
風魔の舞台版はアイドル舞台であり、
作品のレベルに来ていない。主人公小次郎の動機に真実がない。
作品を見る者が何にシンクロしているかと言えば、
登場人物の動機ではなく、
村井(や、他の◯◯さん)頑張ってる、である。

ドラマ版は、無名の役者を使った。
◯◯ちゃんカッコイイの感情は、初期には壬生武蔵竜魔白虎くらいのものだろう。

小次郎の動機には真実がある。
かわいこちゃんの前でいいかっこをしたい、
という誰もが持つ動機、
その裏にある、組織の中の使命と自分があまりに違い、
違和感を持っていること、である。
若者のアイデンティティーそのものである。

前者は、表面上のテーマだ。
後者が小次郎の中身のテーマだ。
これがあるから、竜魔への反発や、項羽琳彪の死をどう受け止めるかや、
竜魔が寝込み風林火山の使い手になることや、
姫子への告白と麗羅の死が、一連のドラマとなるのである。

「新しい形の忍びになること」
(伝統的忍びの価値観と、小次郎のパーソナリティーを、
矛盾なくひとつのものにするように成長する)というテーマは、
二つの止揚なのである。



動機という真実は、異物に出会い、
解決への旅に出る。
解決したとき、それが主人公や世界になんの意味があったのか、
というテーマというものへ結実する。
つまり、動機はテーマに変態を遂げるのである。

何が言いたいのか分からない、
作者が何をしたかったのか分からない、
何のためにこうしたのか分からない、
全ての駄作は、動機に真実がなく、
問題の解決による止揚が、嘘臭かったのである。
posted by おおおかとしひこ at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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