我々は嘘をつく仕事だ。
登場人物の基本設定、事件、解決過程、
失敗過程、解決方法、
全ては嘘である。
勿論真実に基づいた取材はするが、
たとえドキュメンタリーであっても、
演出の範囲で嘘をつく。
なのに、何故真実味があるのか。
「ほんとうに見えること」と「本当のこと」とは何が違うのか。
「分かりやすいこと」というのは、
ひとつの指標である。
いかに真実を描いたとしても、
複雑でよく読み込まねばならないものは、
映像向きではない。
だから、わかりやすくするための嘘をつく。
構造を簡単にする。
(要素を2.5にする)
対比的にする。
(陰と陽にわける。やりすぎると善人対悪人の構図になる)
対比的にするということは、
キャラ立ちをさせることだ。
キャラを被らせない。
キャラが立つような何かを足す。
嘘のエピソード、嘘の設定で、キャラづけをする。
それは、記憶に残しやすいようにだ。
(杜撰な取材だと、ここにボロが出るのは、
「明日、ママがいない」でもあった。
キャラ立ちすることは、そのキャラが持っている偏見やマイナス面も請け負うことだ)
解決の過程を単純化する。
何かの工程を省いたり、
ミックスさせることで、
解決への道程を分かりやすくする。
(ここも取材が杜撰だと、うそくせえ、と言われたりする。
童貞の書くラブストーリーは、このへんが甘い)
解決の瞬間が、絵で分かるものにする。
それが劇的であるようにする。
例えば、
数学の証明が終わり、などが解決の瞬間だとしたら、
それは地味な絵になるから、
夏祭りの花火に間に合い、花火を見ることで証明をなしたことを絵で表現する、
などの嘘をつく。
絵のカタルシスと、内容のカタルシスをシンクロさせるのが、
映像表現である。
小保方氏の「嘘」(論文コピペ、割烹着演出、酢につけるだけ)は、
全てこれらの特徴があった、映画的、劇場的な嘘だった。
まあ、分かりやすくするための手段、演出だとしよう。
もしSTAP細胞が本当だとすれば、
それらの嘘は、演出の範囲に許容されるだろう。
STAP細胞すら嘘だったら、全てが嘘になるだろう。
我々嘘の世界は、全部が全部嘘ではない。
嘘の世界がリアル世界と、唯一共有出来る真実が、ひとつだけある。
それは、主人公の動機だ。
どんなにファンタジー世界でも、
どんなに外国や知らない世界の事件でも、
主人公の動機だけは、真実でなければならない。
勿論、問題解決過程は、リアリティーがあるに越したことはない。
嘘の世界であればあるほど、本当くささは大事だ。
しかしそれは嘘の本当くささでよい。
リアルを突き詰めたら、前述の、分かりやすさに行き当たるからだ。
だから、それを貫く要素である動機に、
本当がなければ、全てが嘘になるのだ。
モテたい、という心の叫びでもよい。
愛する人を守りたい、でもいい。
俺が俺であることを示す、でもいい。
そこに嘘があってはならない。
作者が本気で思うような、
この絞り出す思いこそが、真実でなければならない。
我々観客はそこにシンクロするからこそ、
嘘の世界である筈の映画世界が、
二時間だけ現実になるのである。
かつて故・市川準が、
「最近の若者の書く人間が、漫画的になっている」
と嘆いていたという。聞いたのは20年近くになるか。
漫画的、というのは表層でとらえて、
ビジュアルや芝居の仕方、などのように最初は思った。
しかし、これは人物の考え方や見方(あることへのリアクション)なのだな、
と分かるようになってきた。
漫画的でない人間、とは、リアルな人間、
ということだ。
こういうシチュエーションや問題に出くわしたときに、
リアルな人間ならどう考えるか、どう反応して、これをどうとらえるか、
ということだ。
その根本には、動機があるから、そのような反応が出来るのだ。
モテたい、でもいい。
漫画的なリアリティーではなく、
現実世界のリアリティーがいい。
痛々しくて見てられないから、漫画的にして笑うか、
そもそもリアリティーある映画的世界の題材としてふさわしくないのだけど。
その主人公が、
本気でそれを望み、本気で求めるからこそ、
主人公が冒険の旅に出るリスクを犯すのだ。
(ちなみに、ACT 1の30分のどこかでそれを示す。
ちなみに、30分それを描く暇はなく、ワンシーンで一発で決めるのが望ましい)
我々はそれにシンクロするからこそ、
二時間席に黙って座っているのである。
(詰まらない映画の批判の第一は、なんだい?
「何がしたいのか分からない」だろう?
これは、ギャグが寒いとか、予算が安いとか、ヒロインが不細工とか、
伏線バレバレとか、お約束過ぎるとか、途中寝たとかよりも、
作品を酷いと言っている批判である)
話を小保方に戻すと、
彼女の動機が、
STAP細胞という新細胞をつくり、人類に福音をもたらすこと、
であれば、我々は嘘を許容するだろう。
有名になりたいとか、漫画的なことだったら、
我々は嘘にまみれたどこにも真実を見いだせず、
彼女を嘘つきとするだろう。
フィクションとは、嘘である。
現実逃避のために、いっとき現実を忘れて嘘の世界にひたる。
よく出来た嘘は、その世界の中で真実味のある世界を構築している。
真実味といっても、嘘である。
よく出来た嘘だなあ、というのが感想だ。
そこに真実がひとつだけ入ることによって、
我々は夢中になるのである。
僕がアイドル映画を否定するのは、
「真実」の部分を、イケテるアイドルの生成分を利用していることにある。
◯◯ちゃんカワイイとか、◯◯ちゃん頑張ってる、
という感情が、作品の真実に寄与しているタイプのジャンルだ。
それは、作品(脚本の描く世界)とは関係のない部分である。
勿論、興行がその幻影を商売にしていることは否定しない。
問題は、アイドルを売りにして、
作品のレベルがひくいことだ。
そのような作品は、◯◯という人物の動機にシンクロすることより、
◯◯役を演じている◯◯ちゃんを観察して愛でることが目的になる。
◯◯ちゃんでない、知らない役者だったとしても、
同じぐらい人物の動機にシンクロするのが、
作品の真実の力である。
風魔の話をせざるを得なくなってしまった。
風魔の舞台版はアイドル舞台であり、
作品のレベルに来ていない。主人公小次郎の動機に真実がない。
作品を見る者が何にシンクロしているかと言えば、
登場人物の動機ではなく、
村井(や、他の◯◯さん)頑張ってる、である。
ドラマ版は、無名の役者を使った。
◯◯ちゃんカッコイイの感情は、初期には壬生武蔵竜魔白虎くらいのものだろう。
小次郎の動機には真実がある。
かわいこちゃんの前でいいかっこをしたい、
という誰もが持つ動機、
その裏にある、組織の中の使命と自分があまりに違い、
違和感を持っていること、である。
若者のアイデンティティーそのものである。
前者は、表面上のテーマだ。
後者が小次郎の中身のテーマだ。
これがあるから、竜魔への反発や、項羽琳彪の死をどう受け止めるかや、
竜魔が寝込み風林火山の使い手になることや、
姫子への告白と麗羅の死が、一連のドラマとなるのである。
「新しい形の忍びになること」
(伝統的忍びの価値観と、小次郎のパーソナリティーを、
矛盾なくひとつのものにするように成長する)というテーマは、
二つの止揚なのである。
動機という真実は、異物に出会い、
解決への旅に出る。
解決したとき、それが主人公や世界になんの意味があったのか、
というテーマというものへ結実する。
つまり、動機はテーマに変態を遂げるのである。
何が言いたいのか分からない、
作者が何をしたかったのか分からない、
何のためにこうしたのか分からない、
全ての駄作は、動機に真実がなく、
問題の解決による止揚が、嘘臭かったのである。
2014年03月16日
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